2月27日
マグニチュードが7,8をこえる強力な地震がトルコの南東部で起こったのはもう10日以上前のことだろうか。一瞬で崩れ落ちる高いビルや橋、崖は崩れ交通が各地で遮断され、援助活動もままならない状況だった。
地震が起こってからというものは、そのくずれたビルの下敷きになっている人たちを、どう救い出すかということが、大きな問題となっていた。ところがあまりにも広大な地域がしかも多くの建物が破壊されているために、復旧作業はすすまなかった。
自分のすぐ前のビルの下敷きになっている娘を助け出そうとしても、どうにもならず4日間も娘の手を握り締めたままでそこにうずくまり続ける父親の写真が、マスコミで紹介されていた。
何人もの赤ちゃんや子供たちが、家族の全部地震でうしない孤独になり、今後のその子の人生はどうなるのか、ということが各地から報じられたが、そのニュースを巡り、現地からはその子も死んだ方が幸せだった、という意見が報じられた。
確かにこんなケースを耳にした時、人は親と一緒にその赤ん坊も死んだ方がましだったと思うかもしれない。しかし、その赤ん坊には未来があるのだ。どんなに孤独であろうとも、その悲しみから逃げることは出来無いのだ。
生きた赤ん坊の命は神が与え、死んだ子の運命も神から与えられた運命だった。しかし、こんな話しは胸が張り裂けるほどくるしく悲しいではないか。悲しみのストーリーはまだ沢山ある。その悲しみへの唯一の答えは「おお神よ、」その一言が唯一の答えなのかもしれない。