『ウクライナ動向など』
ウクライナの動向はアメリカ政府の思惑通りには進まず、事態は沈静化しつつあるようだ。軍事的な緊張の高まりに合わせてロシアはウクライナとの国境近くに部隊を移動させ、クリミアを守るように約30隻の艦船を地中海から黒海へ入れたが、地上の一部部隊が基地へ戻り始めたという。
その一方、地中海へはバルチック艦隊や北方艦隊から艦船が入ったと伝えられている。地中海の東側にあるシリアではイスラエル軍機によるダマスカスへの攻撃が続いていたが、ロシア軍はそのシリアで軍事演習を実施するようだ。
艦船が集結しているほか、2月15日にはTu-22M3戦略爆撃機とミグ31K戦闘機がシリアのフメイミム空軍基地に到着した。シリアは2011年3月からアメリカを中心とする勢力の侵略を受けてきた。
その手先はムスリム同胞団やサラフィ主義者(ワッハーブ派、タクフィール主義者)を中心とする戦闘員で、アル・カイダ系武装集団やダーイッシュ(ISIS、ISIL、IS、イスラム国などとも表記)という形をとっている。
ムスリム同胞団やサラフィ主義者を傭兵として使うという戦術はオバマの師にあたるズビグネフ・ブレジンスキーが1970年代に始めたものだ。シリアもリビアも「内戦」ではなかった。 「アル・カイダ」の象徴的な存在だったオサマ・ビン・ラディンをアメリカ海軍の特殊部隊「NSWDG(通称DEVGRU、またはSEALチーム6)」に殺されたとされているのは2011年5月。
リビアでの作戦が開始されてから3カ月後のことだ。死体は空母カールビンソンから海に葬られたとされているので、誰も死体を確認できない。2014年に自分がオサマ・ビン・ラディンを射殺したと主張する人物が現れた。ロブ・オニールと名乗るその人物はチーム6の元メンバーだというが、ビン・ラディン殺害の3カ月後、チーム6のメンバー20名がアフガニスタンで死亡したとAPが伝えている。
2001年7月4日から14日にかけて彼はドバイのアメリカン病院に入院している。彼は腎臓病を患い、人工透析を必要としていたというのだ。 ドバイの病院でビン・ラディンを治療していたのはアメリカ人医師のテリー・キャラウェイで、入院中にサウジアラビアのトゥルキ・アル・ファイサル総合情報庁長官やCIAエージェントのラリー・ミッチェルが見舞っている。
オサマ・ビン・ラディンは2001年12月15日に死亡、アフガニスタンで行われた葬儀にはイギリスの情報機関MI6の代表が参列したという。リビアのムアンマル・アル・カダフィ体制は2011年10月に倒される。
その際に地上部隊の主力がアル・カイダ系だということが判明した。空からNATOが攻撃、アル・カイダ系武装集団を支援したといことだ。情報機関はカダフィの動きを追跡、地上部隊へ知らせていたという。
その後、ジハード傭兵の幹部はアメリカの軍や情報機関が救出、アフガニスタンなどへ運んだとされている。そのアフガニスタンからアメリカ軍が撤退することになると、戦闘員は中央アジアへ移動したとも言われていた。一部は新疆ウイグル自治区へ入った可能性がある。
国防総省系のシンクタンク「RAND研究所」が2019年に出した報告書には、ウクライナの武装強化、シリアのジハード傭兵への支援強化、ベラルーシの体制転覆、アルメニアとアゼルバイジャン(南カフカス)の緊張を煽るといったことなどが書かれている。
今後、ジョー・バイデン政権はシリアに対する攻撃を強める可能性がある。それを見越してロシアは動いているようだ。中国攻撃に注力するためロシアとの平和を望んでも帝国主義戦争屋であることは変わらない。