『シリアのヤルムーク・キャンプの思い出』

2020年11月29日

 シリアの首都ダマスカスの近郊に、ヤルムーク・キャンプという、パレスチナ人の居住する、難民キャンプがある。ここはシリアの内戦で、相当酷い攻撃を受け、何人の人たちが犠牲になったか分からない。

 シリア政府もどうせ、パレスチナ人の難民キャンプだ、ということで正確な犠牲者数を、割り出してはいまい。それよりも、シリア政府にしてみれば、シリア国民の犠牲者数や、家屋の破壊情況の方が、第一義なのであろうから。

 つまり、このヤルムーク・キャンプは、忘れられた難民キャンプだ、ということだ。多分ガザの難民キャンプは、聞いたことのある日本人も多いだろうが、ヤルムーク難民キャンプについては、そんなものがあるのか、それはどこにあるのか、全く基礎知識さえない人たちがほとんどであろう。

 国連やマスコミが騒げば、難民キャンプの存在も世界的に知られ、そこには援助物資も届くし、ジャーナリストによるレポートも発表される。それどころか、パレスチナ人全体を代表するパレスチナ自治政府ですら、ヤルムーク難民キャンプを、放置しているのではあるまいか。

 最近になって、ヤルムーク・キャンプのことが、ヨルダン・タイムズによって報じられた。そこにはかつては、16万人程のパレスチナ難民が、生活していたそうだ。それがいま、400人以上の家族たちが、戻っているということのようだ。彼らはシリアの内戦のなかで、あちらこちらと逃げ回って、生活していたのであろう。

 しかし、ヤルムーク難民キャンプに戻ったからといって、彼らには仕事があるわけでもなければ、住めるに充分な、家屋があるわけでもあるまい。つまり、ボロボロの瓦礫の山と変わらない、キャンプのなかの自分たちが、元住んでいた場所に、戻っただけに過ぎないのであろう。

 20代のことだから、もう50年近くも前の話だが、一度ヤルムーク難民キャンプを訪問したことがある。リビアに留学していた頃の親しかった、ガザ出身のムハンマド、アブルコムサーン君の、姉が住んでいるので、機会があったら訪問してくれ、ということだった。彼はその頃クウエイトで学校教師をしていた。

ダマスカスからタクシーに乗り向かったのだが、キャンプ内に入ってみると、ブロックで組まれた家が、何軒も並んでいた。そこでアブルコムサーンという家族名を言うと、親切に案内してくれる人が現れ、間も無くムハンマド、アブルコムサーンの、姉の家に着いた。

 姉は満面の笑みで迎えてくれ、家の中に入った。紅茶が出され、お菓子も振舞ってくれた。彼女にしてみれば最高のもてなしの、始まりだったのであろう。その後には昼飯が待っており、食べて行けといわれたが、さすがにそれは断り、ホテルに戻った。

 姉にしてみれば、もう大分会っていない、弟の友達が来てくれたということは、弟に会っているような気がしたのであろう。難民の暮らしを暗くは語らなかった。彼女はいい知らせを弟に、送って欲しかったのであろう。

 『元気か?』『元気だよ、お前は?』という言葉の繰り返しが、一番いい会話なのであろう。多くは誰も語りたくは無いのだ。語り始めたらもう、涙が止まらなくなり、怒りがこみ上げてくるからだ。

 ヤルムーク難民キャンプ、そこはこれから立派に、再建されるのであろうか。それには何年ほどの年月が、必要なのであろうか。それまで難民キャンプの住民たちは、生きていられるのであろうか。あのムハンマド、アブルコムサーンの姉は、それまで生きていられるだろうか。幾つのもことが知りたい。でも、いまの私に何が出来るのであろうか。

彼らがそうだったように、喜びも悲しみも時間という特効薬が、癒してくれるのであろう。