『イスタンブール空港テロ二つの悲劇』

2016年6月30日

 

 トルコのイスタンブール空港で起こったテロは、41人の死者と239人の負傷者を、出した大惨事だった。空港内で爆発が起こり、旅行者が右往左往するシーンや、犯人の一人が撃たれて倒れるシーンなどが、アクション映画さながらに、ツイッターやインターネットを通じて、世界中にばらまかれた。

 訳の分からない外国人の叫び声を聞いても、日本人にはほとんど実感がわかないのではないか。それは日本があまりにも、安全な状態を長く維持してきたからであろう。災害などの映像とは異なる、これらの外国での犯罪映像は、どうしても遠い世界の出来事でしかない、と感じてしまうのかもしれない。

 しかし、その裏にはやはり、現実に悲劇が存在するのだ。ここでご紹介する二つの話は、少しは日本人にも、状況が実感させて伝えるのではあるまいか。

 一つはチュニジア人の話だ。IS(ISIL)に参加した自分の息子の安否を気遣い、金を借りて自分の持ち金と合わせて、シリアに息子を連れ戻すために、連絡を取りまくった。

 その甲斐あって、息子は何とか帰国することに同意し、あの日イスタンブールの飛行場まで、たどり着いていたというのだ。しかし、事件に巻き込まれたために、息子はそこで死亡した。息子を待っていたチュニジアの親は、その知らせを受けた時、まさにアッラーのご意志を、目の前にしたという感じであったろう。

 もう一つの話は、国籍はわからない。毎日流れてくる膨大なニュースのなかで、ある記事は細かく読んでいないからだ。その犠牲者はイスタンブールの空港で、テロに遭遇し負傷した。しかし、彼を心配する家族のことを考え、『私は大丈夫だ』という電話をかけたというのだ。

 結果は重傷による死亡だった。電話を受けた留守家族は、『私は大丈夫だ』という電話を受けた後に、家族の死を伝えられた。この家族の死亡の通知を聞いて、家族はどう感じたのであろうか。いっそのこと、最初の段階で死亡してくれていた方が、心の整理が付いたのではあるまいか、と思ったかもしれな。これでは悲しみが、ダブルで家族を襲うからだ。

 この二つの話は、運命とはまさに神のみ手にある、ということの証明のような、

話ではないか。人生の喜びも悲しみも、人はそれ司ることが出来ない、ということであろうか。