2011年カダフィ大佐が殺害され、リビアのアラブの春革命は、成功したかに見えた。しかし、それは一人の独裁者(?)を、殺害しただけのことであり、革命派による新しい体制が、出来上がったわけではなかった。
表面的には、アブドッジャーリールなどの体制は出来上がったが、それは一部地域と部族を、代表するものでしかなかった。その結果、カダフィ大佐亡き後のリビアは、部族が各々にミリシアを結成し、イデオロギー、宗派などの集団が生まれ、群雄割拠の状態を生み出した。
以来、4年の歳月が経過したが、リビア内部はこうした、各国内集団に加え、IS(ISIL)の侵入があり、状況は悪化している。大分前に書いた記憶があるのだが、こうなってくると、カダフィ待望論がリビア人の間に生まれてきても、不思議は無い。
エジプトはリビアの隣国とあって、直接的に自国に影響が出るため、対応策を考えている。エジプトの対応策は、カダフィ大佐の従弟である、カダフィダムを担ぎ出すということのようだ。
そうした流れの中で、今回カダフィ大佐の次男、サイフルイスラムに関する本が『サイフルイスラム』が出版された。著者はドクター・ムハンマド・アブドルモトリブ・アルホウニ、彼はカダフィ時代には反体制派で亡命していたが、1984年帰国しサイフルイスラムに非常に近い立場で、顧問のような役割に付いた人物だ。
ドクター・ムハンマド・アブドルモトリブ・アルホウニは立場上、サイフルイスラムが何を考え、何をしようとしていたのかについて、詳しく知っている。
著者が言うところでは、サイフルイスラムは家族兄弟の間で、全く違う考え方をしていた(独裁的でなかった)と述べ、たびたびカダフィ大佐とも、意見対立していた。
サイフルイスムはリビアのカダフィ体制を、国際的に受け入れられる、まともなものにしよう、と考えていたということであろう。そのため、サイフルイスラムは外交活動でも、独自の方針を展開していた、彼自身が画家でもあったため、サイフルイスラムは彼の個展という形で、各国でリビアを説明していた。
リビアの国内が混沌としてくる中では、サイフルイスラムはムスリム同胞団とも秘密裏に、交渉をしていたということだ。
1999年サイフルイスラムは、国際カダフィ慈善協会を設立し、活動を開始している。彼は受刑者の待遇改善をしたい、と著者に打ち明けていた。そしてその目的実行のための活発な活動を開始すると、国内の体制各派からの反発を受けることになった。
また、兄弟のムウタシムとの、権力闘争も起こっていた。カダフィ大佐はサイフルイスラムを、一番まともな子息と考えていたが、軍を指揮するムウタシムは、自分こそが後継者だと決めていた。ムウタシムはそのため、カダフィ大佐にリビアの治安全部の権限を、与えるよう迫っていたということだ。
こうした内部闘争のなかで、サイフルイスラムを担ぎ上げる、革命委員会もあったが、サイフルイスラムはリビア人同士が殺し合い、経済を破壊すことになるとして、その動きの責任者になることを断っている。
著者はしかし、サイフルイスラムが革命勃発時に、判断を誤ったと見ている。サイフルイスラムは革命闘争が始まると、強硬手段を選択したのだ。著者はこの時期にベンガジに入って、革命派と話し合うべきだったというのだ。そして本物の変革を宣言すべきだった、と主張している。
この本は述べるまでも無く、サイフルイスラムを擁護する内容に、なっているものと思われる。そうした本がいま出てきたということは、それなりの政治的な配慮が、あるからではないのか。
エジプト政府がリビアの各部族代表を集めて、和解会議を開いており、その裏でカダフィダムを支援している。そのことに加え、今回のサイフルイスラム本の出版は、サイフルイスラムという一枚看板を、表に出す動きに出るという、前触れではないのか。