ヨーロッパ各国でもそうであったように、アラブ最大の都市カイロとエジプトには、イスラエル国家が誕生する前、あるいはアラブ・イスラエル戦争が始まる前までは、エジプトのカイロ市やアレキサンドリア市には、多くのユダヤ人が居住しており、社会的に活躍していた。経済の分野ばかりではなく、文化面でもそうであった。
エジプトで製作された著名な映画は、ユダヤ人の手によるものだったし、銀行経営でも、ユダヤ人が大きな役割を果たしていた。それらの人々がエジプト政府から、次第に圧力を受けるようになっていった裏には、シオニストの工作があったからだ、とユダヤ人たちは考えている。シオニストがアラブとイスラエルとの間に、憎しみを植え付け、対立するようにしていったのだ。
エジプトに居住するユダヤ人たちのなかには、シェハタ・ハロウン氏や、ユセフ・ダルイーシュ氏らのような、反シオニズムの活動家がいた。彼らは反シオニズム活動を展開していたのだが、エジプト国内の反ユダヤ反イスラエル感情の拡大と、政府からの圧力により、出国を余儀なくさせられていった。1949年から1951年の間に、エジプトを出国したユダヤ人の数は、1万5000人から2万人に上るという報告がある。
例えば外国に旅行しようとすると、ユダヤ人たちの帰国は認められず、エジプト国籍は剥奪された。そこには何の例外も認められなかった、それは1956年から実施されている。
娘が重病のため、パリでの治療を望んだユダヤ人は、出国と共に国籍を失うと言われ、結果的にはエジプトに留まり、娘は治療がかなわずに、死亡するという悲劇も生まれている。
あるユダヤ人はエジプトに留まることを強く望み、ユダヤ教からイスラム教に改宗し、イスラム教徒の女性と結婚するのだが、1947年5月15日以前にユダヤ教徒であった者の改宗は、認められないと言われた。
こうした経緯から、かつては6万人以上もいたエジプトのユダヤ人の数は、現在では9人にまで減少している。彼らはいまではエジプト国内にある、12のシナゴーグの管理が、難しくなってきている。
シナゴーグにはそれぞれ、2人の管理人が雇われているが、彼らに対する給与の支払いが、難しくなってきているのだ。加えて、ユダヤ教の祭日にシナゴーグに、ユダヤ教徒が集まらなくなってきてもいる。そして、祭日に供されたユダヤ教徒が食べる、イースト菌を使わないパンも、既に作っているパン屋はなくなってしまったということだ。