『GCCから外されたカタールの足跡』

2014年3月 7日

 

  湾岸諸国が仲間だったはずのカタールを、ボイコットする動きに出た。サウジアラビア、アラブ首長国連邦、バハレーンが大使をカタールから召還したのだ。事がここに至るには、それなりの理由があるはずだ。昨日も書いたが今日も少し書き足してみよう。

  カタールは早い段階から石油やガスの資源の、存在が考えられていたこともあり、オスマン帝国やイギリスが深く関与してきていた。その後、1971年にイギリスの保護下から離れ、独立することとなった。

1950年代には既にある種の、繁栄への兆しが見えていたが、ここにエジプトからムスリム同胞団のメンバーが、逃れてきたのだ。エジプトではナセル革命の後、ムスリム同胞団に対する弾圧が強化され、危険な状態にあったためだ。

この多数のムスリム同胞団メンバーが、カタールに入国した後、彼らがカタールの教育システムを構築したが、それがカタール国民を宗教熱心にした、と言われている。

カタールではエジプトなどで発禁本となっていた、サイイド・コトブを始めとする、ムスリム同胞団の学者たちが書いた本が、自由に入手可能だった。つまり、カタールは文化的にはムスリム同胞団の、支配下に置かれた形になっていたということだ。

エジプトに続き、1982年にはシリアでもムスリム同胞団と、ハーフェズアサド大統領との間で衝突が起こった。2万人ものハマ市の住民が殺されたと言われている。このため、シリアからもムスリム同胞団のメンバーが、カタールに亡命することとなった。

1999年にはハマースとヨルダン政府との関係が悪化し、ハマースのハーリド・ミシャアル代表が、カタールに移住している。

続いて、2001年には911事件をきっかけに、ムスリム同胞団とサウジアラビアとの関係が、緊張することとなっている。

1995年には国王に対する宮廷革命がおこり、シェイクハマドが新国王に就任したが、彼はアラブ世界で一定の地位を得ることが、可能だと判断したのであろう。こうした流れのなかで、彼は1996年にアルジャズイーラ・テレビを開設している。

このアルジャズイーラ・テレビが、後に大きな影響をアラブ諸国に及ぼすことになった。例えば、アラブの春革命はカタールのアルジャズイーラ・テレビによって、扇動された部分が少なくなかろう。ちなみに、このアルジャズイーラ・テレビのスタッフの半分が、ムスリム同胞団のメンバーだと言われている。