物事はいいように転がるときは、何事もいい方向に向かうようだ。しかし、ちょっとしたミスで悪い方に転がり始めると、やることなすことうまくいかなくなるものだ。何故こうなったんだろうと言っても、その時は時既に遅しなのだ。
最近のトルコが置かれている状況は、どうもそんな感じがする。エルドアンという大役者が、アラブ中東のスターとして国際舞台に躍り出たときは、彼の口をついて飛び出すせりふの一言一言に、世界、中でもアラブ諸国のリーダーたちは、大喝采を惜しまなかった。
おひねりが飛び、トルコには思いもかけない金が、転がり込んできた。輸出が伸びアラブ各国への企業進出が激増し、トルコの経済は過去10年で大きく様変わりした。その変り様は、歌舞伎役者が衣装を瞬時にして脱ぎ、次の役を演じるような、派手で人目を引くものだった。
近隣諸国との友好をうたい、周辺諸国との関係は大きく改善されたことが、その裏側にはあった。しかし、その大立ち回りとでもいうべきトルコの国際政治が、ここにきて色彩を欠いてきている。派手さも、力強さも無くなり、ただ老醜をさらけ出す姿に、変貌しているのだ。
何がトルコをそうさせたのだろうか。それはエルドアンという大役者が、自分の力量を読み違えたことに、端を発しているのではないか。彼は何でも可能だとある次期から考え始めた。首相の任期が終わろうとするとき、彼は次に大統領に就任することを望んだ。しかも権限のあるアメリカの大統領のような役割だった。
与党内部では反対はあったものの、エルドアン首相の人気を無視できずに、与党AKPの幹部たちは、しぶしぶ受け入れる方向で推移している。しかし、エルドアン首相の役割は、既に終わっているものと思われる。
そうしたトルコの事情を人に語るとき、私は次のような説明をしている。『エルドアンという人物は、たとえてみれば会社の創業者です。創業時は社長も社員も昼夜を問わず働くことを厭いません。しかし、会社がしかるべきレベルに達すると、社員はしかるべき待遇を求めるようになります。あまりきつい仕事もしたくなくなるでしょう。
そのときは社長が二代目に交代するときです。しかし、エルドアン首相は交代したくない。そうなるとトルコ社会のなかから、不満が出てくることになります。エルドアン首相はイスタンブールで起こったデモを、その兆候と捉えるべきだったのでしょうが、全く反対の判断を下し、創業時の精神で動いてしまった。結果はこういう残念なものになったということですね。洋の東西を問わず、誰にも何事にも引き際があるんですね。』
最近、在米のトルコ大使はアメリカのトルコに対する期待と評価が、下がったことを伝えている。そのことはヨーロッパ諸国も、アメリカに遠慮せずにトルコ対応を、してくるということであろう。そうなれば、トルコの立場は厳しいものになるのではないか。
善隣友好をうたったトルコの外交は、シリアともイラクともパレスチナともエジプトとも、いま極めて微妙な段階に入っている。そしてトルコのエネルギー・ソースである北イラクのクルド自治政府とも、難しい時期を迎えているし、イランとの関係も悪化していく傾向にあるようだ。エルドアン首相に言いたい『引き際を忘れるな。』と。