1928年にスエズ運河に近いイスマイリーヤ市で、結成されたムスリム同胞団は、そもそも反英闘争の武力集団だったと記憶する。この反英闘争という言葉の裏には、まだ裏があるのだが、その説明はやめておこう。
ムスリム同胞団が宗教的色彩の強い、イスラム原理主義の組織というイメージになったのは、第二代代表のサイイド・コトブの時からであろう。彼が書いたズィラール・クルアーンなる書物が、ナセル大統領によって発禁本になったことから、異常なまでの関心と人気を集め、アラブのムスリム青年層の間で広がっていった。
しかし、彼の後を継ぐムスリム同胞団のトップは、皆高学歴ではあるが、医師や工学博士といった学位を持つ人たちであり、イスラム学者ではないのだ。
何度も書いたように、ムスリム同胞団による、イギリスの傀儡である王制打倒運動は、ほぼ成功に至った段階で、ナセル大佐の率いる青年将校団がムスリム同胞団の革命を横取りし、以後、ムスリム同胞団はナセル大統領によって、弾圧される時代を迎えている。
つまり、ムスリム同胞団とは結成 当初から、武力闘争を前提としていたのであり、決して日本で言われているような、軟弱な組織ではないのだ。それを穏健なイスラム組織であるとか、貧者救済のための組織というのは、全く見当違いなのだ。
今回の軍との闘争の中でも、ムスリム同胞団は貧者に小銭を配り、シット・イン・デモを行わせているし、子供たちを盾にしての、反政府運動も行っているのだ。エジプトのある人が書いていたが『子供に新しい服を着せて、革命闘争の場に連れ出す親の気持ちが分からない』まさにそうであろう。
ムスリム同胞団によってかき集められた貧しい人たちは、軍ではなくムスリム同胞団の狙撃手たちによって、撃ち殺されているのだ。ムスリム同胞団はそれを軍による、非人道的な対応と非難し、世界に訴えているのだ。
しかし、今回出てきた事実は全面的にムスリム同胞団の立場を、覆すものになりそうだ。ムスリム同胞団がラバア・アダウイーヤでシット・イン・デモを行っている人たちに、食料を運ぶと見せかけた車には、大量の武器が荷台の床下に、隠されていたのだ。
この現実はエジプト軍によって公表され、イスラエルが世界に向けて伝えている。早晩欧米のマスコミも、その事実を伝えるものと思われる。もちろん、エジプトのチャネル1テレビは、この事実を放送している。
ここ数日でエジプト政府はムスリム同胞団の、シット・イン・デモを排除することを決めたが、その際にこれらの武器を使っての、抵抗が計画されていたのではないだろうか。そうであったとすれば、もし武器のデモ現場への搬入が見つかっていなかったら、とんでもない銃撃戦と多数の死傷者が出ていたろう。