『トルコ・デモ記事への反論友人たちが寄せる』

2013年6月20日

 6月19日付で、私が書いたトルコのデモに関する記事に、何人かの友人たちが反論してきた。在日のトルコ通信社の特派員は、私のデモに関する意見を聞きに来た。トルコに関係する人たちの間では、やはり今回トルコで起こっている、デモに対する関心が高いようだ。

私の記事に対する反論は、簡単に言ってしまえば『今回トルコで起こっているデモは外国の陰謀によるものだ。したがって国内から自然発生したものではない。』という趣旨のようだ。

 世界中で起こっている現象には、少なからず外国の介入や工作が、働いていることは事実だ。ある現象がある段階に至ったとき、そこには歴然と外国の介入の影が、存在することは多分にある。

 そこで考えなければならないのは、事象の発端は何であったのか、そのことが起こった社会には、どんな要素が存在したのかということだ。突然、外国がその国に介入工作をしても、それが成功するとは限らない。

 トルコの通信社の特派員に言ったのは、『これは世間で言われているような、アラブの春のトルコ版ではない。』ということだった。アラブの春革命は初めから外国が工作し、大きくなっていったものだ。そしてその工作が成功したのは、大きな社会問題がその国に存在したからだ。

 現在のトルコを見た場合、ほとんどの国民は『今日より明日が素晴らしいものになっていく。』と信じている。経済の成長の中で彼等は将来に対する安心感と、確信を抱いているのだ。

 そういう社会で起こる現象は、特定の問題に対する、短期的な怒りの爆発であろう。そして、それは社会や国家全体を、破壊に導くことにはなるまい。そこがアラブの春に見舞われた国と、トルコとの違いであろう。

ややもすれば、現在トルコで起こっている現象を、トルコの春と表現したがるふしがあるが、それは根本的に、トルコで起こっている現象に対する認識が、間違っているということだ。

 トルコの場合、ギュル大統領とアルンチ副首相は問題の核心を、最初の段階で正確に捉えた。だからこそ『国民のメッセージは受け止めた。』と語ったのだ。それに鈍感だったのは、慢心のエルドアン首相だけであったろう。

 私の判断が間違っているのか、友人たちの指摘が正しいのかは、時間の経過が答えを出してくれよう。もちろん、エルドアン首相がどこまでも慢心であれば、話は別だが。