エジプトのムスリム同胞団は、1950代に起こったエジプト革命の母体であった。ムスリム同胞団の闘いが、最終的にエジプトの革命を成功させたのだ。それを横取りしたのが、ナセル大佐を中心とする、自由青年将校団だったのだ。
ここまで述べると、ムスリム同胞団が今回の革命と、その後の大統領選挙で採った手法が、ナセルと同じであったことが分かろう。ムスリム同胞団は世俗派が始めた反体制運動が、ほぼ成功した段階で登場し、あたかも彼らが革命を成功させたように、振る舞ったのだ。
次いで行われた大統領選挙では、ムスリム同胞団出身のモルシー候補が、選挙管理委員会の発表を待たずに勝利宣言し、大統領の座を奪ったのだ。一説によると、ムバーラク体制最後の首相だったシャフィーク候補の方が、得票数が多かったということなのだが、勝利宣言をされてしまっては、手の打ちようが無かった。
大統領選挙が行われた当時は、世俗派の多くの人たちも旧体制派に対し、反発していたこともあり、もしモルシー候補が勝利宣言をした後で、彼の落選を選挙委員会が発表した場合、大規模な暴動に発展する危険性があったのだ。エジプトの選挙管理員会や当時最高権限を持っていた、軍最高評議会は結局のところ、社会の安定を最優先したという事であったろう。
問題はそこにあった。ムスリム同胞団は彼らが大統領選挙で勝利していないことを知っているし、それに先立つ革命闘争でも、主導的立場に無かったことを知っている。
その状況はナセル大佐と同じであろう。ナセル大佐はムスリム同胞団が起こした革命を、横取りしたということを十分知っており、やがてムスリム同胞団がエジプト政治の、中心になると考え、ムスリム同胞団の撲滅に動いたのだ。
ムスリム同胞団第二代代表のサイイド・コトブ氏を、逮捕し処刑しているし、多くのメンバーを逮捕し、拷問にかけている。このためムスリム同胞団のメンバーの多くは、ナセルが唱えるアラブ社会主義とは違う体制の、王制国家に逃れたのだ。
ムスリム同胞団がエジプトの国家権力を掌握してから、既に半年以上の時間が経過しているが、そこから見えてくるのは、ナセルの手法と同じ弾圧政策だ。それがいま、世俗派の反発を煽り、流血を生み出している。
モルシー大統領が打ち出して失敗した臨時措置法も、いまもめにもめている新憲法制定をめぐる国民投票も、ムスリム同胞団内部にあるナセルの亡霊を恐れての焦りと、不安から生まれたものではないのか。