パレスチナ問題が始まってから、既に60年以上の時が過ぎ去っているが、彼らを取り囲む状況は、何ら改善されていない。それどころか、実質的には時間を追うごとに、夢が断ち切られてきているのかもしれない。
1948年5月イスラエルの建国を挟み、それまで住んでいた場所から、多くのパレスチナ人が追い出された。それに逆らう者たちの多くは、イスラエル軍によって殺されてしまった。したがって、パレスチナ人にとって1948年5月は、悲劇の月であったのだ。その日をナクバの日(大災厄の日)と彼らは呼び、悲劇を語り継いでいる。
そしていま、イスラエルの軍事攻撃から逃れ、シリアに移り住んだパレスチナ人たちが、第二のナクバの日を迎えているのだ。シリアの首都ダマスカスに近い、ヤルムーク難民キャンプが政府軍によって攻撃され、15万人のうちの10万人が、ヤルムークキャンプから逃げ出したのだ。一部は何の手だても無く、戦闘の繰り返されているダマスカスの公園に集まり、他の者はつてを頼ってレバノンに逃れているようだ。レバノンに移動したパレスチナ難民の数は、数千人にも上るということだ。
この惨状を、パレスチナ人たちは『第二のナクバ』と呼び始めている。そもそも、このヤルムーク難民キャンプが、シリア政府軍の攻撃対象となったのは、パレスチナ解放機構の一派である、PFLPGCが政府軍に加担していたことに、起因するようだ。そのことに反政府側が激怒し、ヤルムークキャンプを攻撃し、その結果、反政府側の拠点となったために、政府軍が攻撃を加えたということのようだ。
問題はここから逃れたパレスチナ難民が、最終的に何処に留まることが、出来るのかということだ。レバノンは多くのパレスチナ難民を、大分前から抱えており、その難民とスンニー派が結託したことが、レバノン内戦を引き起こした経緯がある。
今回、レバノン政府は臨時的な措置として、シリアからの難民を受け入れたからと言って、その難民が長期的にレバノン国内に留まることを、歓迎するとは思えない。そうなるとやがて彼らを、追い出す動きが始まろう。
パレスチナ自治政府のマハムード・アッバース議長にとって、このヤルムーク難民キャンプの住民の、定着先を確保することが、当面の大問題になっている。マハム-ド・アッバース議長がパレスチナを代表している以上、彼は対応策を見出さなければなるまい。
そこで考えられる移住地は、ヨルダン、レバノンそしてヨルダン川西岸地区ということになる。しかし、ヨルダンはこれ以上パレスチナ難民を受け入れたく無かろう。ヨルダン国内は経済の悪化から、大きな社会不安を抱えており、そこにパレスチナ難民が大挙して流入して来れば、新たな難問が生まれるからだ。そうはいっても、ヨルダンでは住民の過半数を、パレスチナ人が占めている現在、シリアからの難民受け入れ拒否をすることも困難であろう。
レバノンは既に述べた通りだが、ヨルダン川西岸の地区はどうであろうか。同地区は本来パレスチナ人の居住区なのだが、イスラエルが許可しないと思われる。マハムード・アッバース議長は藁をも掴む思いでヨルダン川西岸地区への難民の受け入れを訴え始めている。
しかし、マハムード・アッバース議長はどのようにしてこの新たな難民をケアするというのだろうか。ヨルダン川西岸地区では財政難から、公務員の給与は半額しか払われず、公務員による2日間のストが宣言されている状態だ。
難民受け入れには住居、食糧、福利厚生、教育の便宜を図らなければならない。そんな余裕はパレスチナ自治政府には無いはずだが。