エジプトの現状は、世俗派とイスラム原理主義者との、対立という構造だ。そして、その方法が親の敵でもあるかのように、毛嫌い非難しあっている。エジプトの現状はあたかも、二つあるいは三つの国に、分裂してしまったかのような、様相を呈しているのだ。
しかし、エジプトはひとつなのであって、複数であってはならない。同国が持つ国力は、人口であり、ナイル川であり、地下資源であり、ロケーションから創り出されたものなのだ。そのエジプトが分裂してしまえば、単なるやせた、貧しい小国群になってしまおう。
チュニジアのガンヌーシ大統領は、イスラム主義者と世俗主義者が一体となって、国家を運営していかなければならない、ということを強調したが、まさにその通りであろう。それ無しに国の発展はありえない。
エジプトの世俗派といわれる人たちも、イスラム教徒であり、個人によって程度の差はあるとはいえ、断食月には断食をし、毎日の礼拝をし、ザカートやサダカを行っているのだ。
つまり、イスラム原理主義者と世俗主義者との違いは、大声でイスラムを叫ぶか叫ばないかの、違い程度なのものなのだ。エジプトのイスラム教徒は誰もが、イスラム教の教えを正しいと思っており、世俗派の人でもイスラム教の教えを否定しない。
以前、パレスチナから来たバリバリの世俗派の、NPO活動家と食事をしたことがある。彼はビールを飲み豚肉を食べることも問題ないと語り、礼拝はしない、と自慢げに語った。
その後出てきた料理のなかに、豚の三枚肉の煮物が出た。彼はそれを旨そうに食べたが敢えて止めなかった。しかし、その後でかれが何の肉だと聞くので、実はあれは豚肉だったと教えると、彼は表情を変えた。世俗派の人とは言っても、それが典型的なイスラム教徒の心理なのだ。
イスラム教の教えには、『アッラーの下に結束し、分裂してはならない。』というのがある。また、イスラム教の教えには『寛容』という言葉がある。そのいずれもがいま、イスラム教徒の心の中から、姿を消しているのであろう。
コーランの第一章開扉章(スーラト・ル・ファーテハ)には、『慈愛』と『慈悲』という言葉が記されている。イスラム教徒は真剣にこの二つの教えを、今一度思い起こすべきであろう。
自分と意見の異なる者を非難し攻撃するのは、その人物の度量の狭さであり、支配される民の習性ではないのか。『自分ではありません旦那様、あの失敗をしでかしたのは奴です。』と訴えることによって、自分がその罪から逃れようとするのは、決してイスラムの教えではないのだ。