トルクメニスタンのカスピ海沿岸に、トルクメンバシという街がある。ここは石油精製施設があり、日本企業が建設したことから、一部の日本人にはよく知られている街だ。
実はこの街のはずれに、日本人捕虜兵の墓地があることは、ほとんど知られていない。確かな人数は分からないが、1000人程度の日本人捕虜兵がいた、とも言われている。彼らがここでどんな生活をしていたのか、何を残したのかについて、少しだけ触れたい。
トルクメンバシ市のはずれの丘に、日本人捕虜兵の墓地があるところには、日本語で刻まれた、記念碑が建っている。記念碑には『鎮魂』という文字と並んで
『望郷の念をいだきつつ
ここカスピ海をのぞむカラクム砂漠に
抑留死した兵士たちよ
あなたちとともに
永遠の平和をねがひ
日本とトルクメニスタンとの
友好のかけ橋ならんことを誓う
1995年5月 日本人墓地建設委員会
クラスノボトスク望郷の丘』
日本人捕虜兵たちはここに送られ、トルクメンバシ市から首都のアシュガバード市に抜ける、幹線道路の工事に携わった。岩山を20メートルほど削り下げ、そこを道路にしたのだ。この掘割道路が出来るまでは、大分遠回りをしていたのであろう。
長さは6~700メートルぐらいであろうか。もちろん、道具はつるはしとシャベル、そして切り出した岩石の運搬は、彼らの背中であったろう。
夏は50度近い高温、冬は零下20度にも達する地での労働が、いかに過酷であったかは、想像すら及ばない。しかも、彼らに十分な食料が支給されていたとも、思えないのだ。
トルクメンバシの街を見ていて、気が付いたことがある。それは切妻式の屋根の家があったことだ。比較的新しい家だったので、日本人が建てたものではないだろうが、日本人の建てた家を真似て、建てたのであろう。
『そこに人が住めば、何かを残していく』そのことを強く感じさせられた。小泉元首相は中央アジア諸国訪問時に、この墓地への参拝を望んだが、外務省の反対で取りやめている。外務省からすれば、死者は無言だから、放置しておいてかまわない、とでも言うのだろうか。
海岸を散策している時に、拾った白い貝殻が、日本人捕虜兵の遺骨のように思え、いまだに手放せないでいる。