帰国すると、まずコンピューターのスイッチを入れ、届いているメールに返事を書き、次いで中東のブログを見るのが、お決まりのパターンだ。現地でもニュースは追いかけているが、見落としや聞き落としがある、可能性があるからだ。
今回もその通りの行動となったが、出張前とあまり変わり映えのしない、ニュースが並んでいた。イラクでの爆弾テロで何十人死亡。シリアの内戦が激化し死傷者多数で難民増加。
こうした日々のニュースを見ていて何時も思うのは、何故そうなっているのか、ということを書く人が世界的に、非常に少なくなっているのではないだろうかということだ。その原因には無知、出来事を深く考えない、責任逃れ、保身などいろいろあろう。
日本のジャーナリストの場合は、多分に保身と無知ではないかと思われる。特派員の任期が短く、帰国後には関係のない部署に、回される場合が多い。従って、長期にわたって一定の地域をカバーしている、専門家の要素と能力を持つ、ジャーナリストが育たないということも原因していよう。
外交官もしかりではないだろうか?専門職で入った人たちは、一定地域をカバーしているが、彼らの知識や判断はいまだに、軽んじられる傾向があるようだ。例外は今度アフガニスタンの大使になった高橋博史氏のケースであろう。
国際関係は外交上の文書の法的な正確さと、緻密さが問われるが、それはその専門の部署を設ければいいだろう。通常の外交活動は、人間性と広い知識で、相手を魅了することが、肝心ではないのか。
日本人は外交官も含め、笑顔を忘れてしまっているようだ。笑顔が相手に与えるイメージは、実に貴重なものなのだ。その笑顔を通して、相手との距離を一歩近づけ、相手の考えや感情を、理解すべきではないのか。
中東で繰り広げられている悲惨な状況を、数字で捉えるのは間違いではないか。そこにはそこの人たちの感情、怒り、悲しみ、悲惨が存在するのだ。それを無視した報道は、実は事実を伝えていないということであろう。
世界のジャーナリストが、あまり読みたい記事を書かなくなっているのは、コンピューターの普及にも、原因があるのではないかと思われる。コンピューターにさえ向かっていれば、世界の情報が伝わってくる、と錯覚するからだ。
米軍のパイロットがイラクを空爆するとき、それはモニターを通してやるために、ゲーム・マシンの前に座っている感覚でしか、なかったのだろうと思う。しかし、彼らが空爆した地上には、何千何万人の人たちが住んでいて、彼らが空爆によって死傷していたのだから。
いま最も大事なことは、現地に足を運ぶジャーナリストを生み出す、社会的職場的雰囲気を、育てることではないのか。