アラブの春と命名されたアラブの革命は、一瞬にしてチュニジアとエジプト、そしてリビアの体制を打倒した。その後もシリア、バハレーン、イエメンなどが続き、現地に生活する人たちは、惨憺たる状況の中で暮らしている。
かつては、オレンジ革命などと言った、洒落た名前が付けられ、絶対許せない独裁体制が、大衆の蜂起で打倒されたともてはやされていた。しかし、現実は決してそんな、体裁のいいものではなかったのだ。
たとえば、リビアのカダフィ大佐の二男サイフルイスラームは、革命派に逮捕され、その後にどうなったのであろうか。カダフィ大佐がリビア国内に分散し、隠匿したと言われている金を狙い、彼の身柄が分捕り合戦の対象となってしまったのだ。
彼ほどの重要な地位に無かった者たちは、簡単に拷問され殺されているのだ。その死体はガソリンが掛けられて焼かれたり、穴に埋められたりしている。イラクでもリビアでも他の地域でも、現在、何十という死体が白骨化し、発見されているのだ。
インターネットの世界では美名に隠された、革命に参加する一般人による犯罪が、次々と暴露されている。シリアでは正義の味方のはずの反政府派が、政府軍の軍人や通報者を捉え拷問し、学校の建物を刑務所代わりに、使っているということが報じられている。
そこで彼らが受ける拷問は、目に余るものであろう。それを非難すれば、我々の仲間も同じように拷問されて、殺されたというであろう。確かにそのとおりであり、革命は敵見方双方を狂気に陥れているのだ。
アフガニスタンでは欧米が慈善で開いた病院で、治療とは言えない残虐な手術や、治療途中で放置され、内臓すら見えるような体で横たわる人たちの、写真が暴露されている。それは先進国の人たちによる、犯罪行為なのだ。
異常な状況では、先進国の人も後進国の人も、イスラム教徒もキリスト教徒も、ユダヤ教徒もあまり変わりはない。ミャンマーでは仏教徒もイスラム教徒を迫害し、虐待しているのだ。
つまり、安定した世の中をどうして、維持していくかということが、人間が人間らしく生きていく、基本ではないかということだ。人を責めるのは容易だが、その責められる非人道的な人間に、環境が変われば我々も、なりうるということだ。
革命は美しいことだけではないということを、もう一度思い起こしてほしいものだ。それが人間の現実、真の姿なのかもしれない。