「湾岸諸国で危険視され始めたムスリム同胞団」

2012年3月11日

 

 エジプトの選挙結果は、ムスリム同胞団の大勝利となった。結果的にムスリム同胞団は、エジプトの第一党になったが、その後の動きを見ていると、軍最高評議会との協力、という姿勢を維持している。

そのことにより、ムスリム同胞団は出来るだけ責任を持たない位置に、いようとしているようだ。その狡猾な動きが今後、エジプト社会でどう評価され、世俗派を始めとしたエジプト国民から、どう受け止められるようになるのかが、今後の見所であろう。

他方、サウジアラビアではムスリム同胞団に対する警戒心が、政府要人の間で広がってきているようだ。アラブの春の一連の革命は、相当大きなショックをアラブ各国に与えたことは確かであり、サウジアラビアもその例外ではあるまい。

サウジアラビア政府はアラブの春の革命の動きのなかで、これを阻止するために大盤振る舞いの国民に対する、福祉を決定し実行してきている。同様の動きは他の湾岸諸国でも見られる。

サウジアラビア政府は、エジプトがナセル大統領によって統治されている時代、彼がアラブ社会主義政策と採っていたことから敵視し、ナセル大統領によって弾圧を受けていた、ムスリム同胞団を受け入れてきた。

そのムスリム同胞団はサウジアラビアのなかで、イスラム大学の設立で彼らのイデオロギーを遺憾なく発揮し、ムスリム同胞団の思想のイスラム大学を設立していった。

したがって、サウジアラビアはワハビー派の国民で、占められているとは言われているが、内実はムスリム同胞団の強い影響を、受けているものと推測される。しかも、そのムスリム同胞団の強い影響を受けた者の多くが、サウジアラビアの宗教関係者や教育者の間に、増加しているのではないか。

ある時期が来たとき、彼らは一斉にムスリム同胞団の思想に従って、行動を起こすのではないか。サウジアラビアにとってムスリム同胞団の思想で、最も危険な部分は『イスラム共和国』を樹立するという考え方だ。つまり、王制には反対の立場なのだ。

サウジアラビアがムスリム同胞団の危険性に気が付いたのは、ウサーマ・ビン・ラーデンの行動が知られるようになってからであろう。イスラム原理主義の思想は、サウジアラビアの政府と一致するが、彼はその一歩先を歩んでいたのだ。そして、世界規模でイスラム闘争を展開したということだ。

当初、ウサーマ・ビン・ラーデンの行動を快く思っていたサウジアラビア政府も次第に警戒し始め、最終的には彼を見捨てている。そのウサーマ・ビン・ラーデンはサウジアラビアで、ムスリム同胞団のメンバーである、パレスチナ人のイスラム学者アブドッラー・アッザーム師に、強い影響を受けていたのだ。

いまサウジアラビアの王家内部では、ムスリム同胞団を始めとするイスラム原理主義組織に、どう対応していくかということをめぐって、分裂が起こっているという情報がある。イスラム原理主義思想はサウジアラビアの、ワハビー派思想と共通するものであり、むやみに反対できない。

というよりも、ワハビー派の学者たちでは、ムスリム同胞団のような後発の、しかも研究に研究を重ねた組織と対抗できるだけの、理論武装が出来ていないのだ。

ムスリム同胞団が誕生したのは1928年であるのに対し、ワハビー派は18世紀にサウド家と結託し、サウジアラビアを建国したことで知られるようになったが、誕生はそれよりも古いのだ。

ムスリム同胞団では創設者のハサン・バンナーの後継者となった、サイイド・コトブという大学者が誕生したが、ワハビー派にはサイイド・コトブに並ぶような大学者は出ていないのだ。

サウジアラビアはチュニジアのナハダ党が、ムスリム同胞団に極めて近い組織であり、リビアにもムスリム同胞団が存在し、次第に力を付けつつあることに気が付いている。エジプトはムスリム同胞団誕生の地であり、いまや第一党に上り詰めたことを、十分わきまえている。

シリアの革命でもムスリム同胞団が、最も大きな力を持っており、ヨルダンでも反政府の核となっている組織は、ムスリム同胞団だ。サウジアラビア政府がムスリム同胞団に対する対応を一歩間違えば、政権転覆も起こりうる。

最近、アラブ首長国連邦のドバイで、シリアの反政府支持者のシリア人たちが、集会を開いたところ、ドバイ当局は彼らの居住権を剥奪した。これに対してムスリム同胞団のトップに君臨している、ユーセフ・カルダーウイ師が反対すると、ドバイ政府は彼に対し真っ向から対立する姿勢を示し、逮捕すると公言した。

シリアの反政府組織もユーセフ・カルダーウイ師が、ドバイとの仲介をすると言い出した途端に拒否している。アラブ諸国ではユーセフ・カルダーウイ師の軽率な行動と、ムスリム同胞団への警戒心とがあいまって、ムスリム同胞団排除の動きが、起こりつつあるということではないか。