「無人機による攻撃の怖さ」

2012年1月10日

 2003年のアメリカ軍によるイラク攻撃と、2006年のイスラエル軍によるガザ攻撃で、無人機の活躍は振りは、世界の軍事専門家の間で高まった。無人機を使うことによって、自軍側の安全を守りながら、敵陣の詳細な映像を無人機から送ることによって、的確な攻撃ができるようになったからだ。

 イスラエルがパレスチナのガザ地区に対する、攻撃を行った段階では、もっと無人機の周辺の能力が、高まっていたものと思われる。単に敵側の映像を送るだけではなく、各種の爆弾を搭載できるようになり、極端な言い方をすれば、一人の人間を狙って殺害することも、出来るようになっているものと思われる。

 しかし、問題はその無人機が送ってくる敵側の映像は、無機質なものであり、映像として建物が見え、その周辺で動き回る蟻のようにも思える、敵側の人影が映るだけだ。

 したがって、そのターゲットに対する攻撃を仕掛けることに、あまり人道的な心の葛藤は湧かない、ということであり、攻撃のスイッチを押すことは、ゲーム・マシンで遊んでいるような、感覚になるのではないか。

 12月の後半に、トルコの南東部シルマクに近い、オルタス村で起こった密輸業者の一群に対する攻撃は、当初、トルコ空軍による誤爆と伝えられたが、攻撃を最初に行ったのはトルコ南部にある、インジルリク空軍基地から発進した、無人機だったというのだ。

 恐ろしいのは、その爆弾投下のスイッチを押した人物は、トルコのインジルリク空軍基地にいるアメリカ軍兵士ではなく、アメリカ本土のネバダ州にある、軍の基地にいる兵士であったということだ。

 トルコのインジルリク空軍基地にいるアメリカ空軍のスタッフは、無人機の操作が、ネバダ州の基地で行われているために、誰もこの空爆に関与できないということのようだ。トルコ空軍のF-16機のパイロットたちは、その後、16~8分して現地上空に到着し、アメリカ空軍の無人機が空爆した後に、爆弾を投下したということだ。

 兵器の飛躍的な発達は軍需産業を発展させるだろうが、他方では戦争、殺戮という行為から、完全に人間としての神経を抜き取ってしまうようだ。それを科学の発達と呼んでいいのだろうか。