アラブには天才的な国家元首が誕生する。そして彼らは、神にも勝る権力を手中にする。ある者は独裁者となり、ある者は英明な君主と呼ばれる。しかし、そのいずれもが最終的には、不幸な人生を終えるのではないか。
エジプトのナセル大統領は1952年の革命により、エジプトの初代大統領となるが、彼の統治下では残忍な虐待が、反政府の人たちに対して、行われていたということは事実だ。
アラブの英雄とまで呼ばれたそのナセルの最後は、アラブ同士の裏切りと殺しあいの処理に、追われるものだった。1970年9月に起こったヨルダン王制への、パレスチナの挑戦の事後処理を終え、彼は心臓発作で死亡した。
アラブにイスラエルとの戦争で、初めて勝利をもたらし、エジプトを経済発展の方向に向けて、舵を切ったサダト大統領は、結果的にその成果の片鱗も見ずに、凶弾に倒れた。
イラクのサダム・フセイン大統領は、独裁者として恐れられたが、彼はアメリカを敵に回すことにより、最後には彼の国民、イラク人によって絞首刑に処せられた。
今、シリアのバッシャール・アサド大統領が、最後の日を迎えようとしている。その彼に向けられた言葉は、あまりにもみじめなものだった。『バッシャール・アサドは大統領になる予定にない人物だった』というものだ。
その通りだ。彼の父である故ハーフェズ・アサド大統領は、二男のバッシャール・アサド氏を大統領にするつもりなかったのだ。ハーフェズ・アサド氏が自身の後継者と考えていたのは、長男のバーセル・アサド氏だった。
精悍な顔立ち、強気の健康そうなこの長男は、誰もがハーフェズ・アサド氏の後継者として、期待を寄せていた。このため、父親であるハーフェズ・アサド氏は、兄弟の間に権力をめぐる争いが起こらないようにと、二男バッシャール・アサド氏を、早々とイギリスに留学させ、眼科医としての勉強をさせることにした。
バッシャール・アサドは物静かな、向学心に燃える青年だった。その成果が間もなく具体的な形になる一歩手前で、家族に不幸が訪れた。それは長男バーセル・アサドの交通事故(1994年)による死だった。
当時、巷では暗殺が噂された。それだけバーセル・アサド氏の個性が、強かったということであろうか。結果的に、父ハーフェズ・アサド大統領の死後(2000年)バーセル・アサド氏に代わって、バッシャール・アサド氏が大統領に就任することとなった(40歳以上が大統領就任資格なのだが、彼の場合34歳で就任している)。
彼が大統領に就任してみると、父親の革命仲間たちが周囲を取り囲み、彼の思うような政治を、させてはくれなかった。加えて、少数派の権力集団であるアラウイー派の要人たちも、彼の周りを取り囲んでいた。
バッシャール・アサド氏は大統領にはなってみたものの、何もできない立場に置かれたということだ。軍の権力集団、党の権力集団アラウイー派の集団などが、十重にも二十重にも彼を取り囲んでいたということだ。
今回の大衆蜂起でも、バッシャール・アサド大統領は何度となく、大改革構想を実行にうちしてみようと、思い立ってみたのではなかったのか。しかし、それが許される環境に、彼はなかったということであろう。
もし、バッシャール・アサド体制が打倒されることになれば、彼はサダム・フセイン大統領と同じように、自国民の手によって、絞首刑に処せられるかもしれない。
その時、バッシャール・アサド大統領の自由を奪っていた要人たちは、口をそろえてバッシャール・アサド大統領の非人道的な統治を、非難することであろう。死人には口がないのだから。