カイロの中心地メイダーン・タハリールに集まった、大衆のムバーラク追放要求の叫びは、遂にムバーラク大統領を大統領の座から、引き摺り下ろすことに成功した。その輝かしい成果が生まれるまでには、600人程度の犠牲者が出た、と最近発表された。
チュニジアに次ぐ大統領打倒の動きは、新しい何かを彼ら大衆にもたらしたのであろうか。その疑問が打倒の瞬間から、頭の中をよぎっていた。私の判断では、大衆によって始められた政権打倒の蜂起は、最後の瞬間で軍によるクーデターと、入れ替わったというものだった。
エジプトの場合、大衆蜂起の当初から軍はこの蜂起を、押さえ込もうとはしなかった。軍に代わって大衆蜂起に対する弾圧を、一手に引き受けていたのは、内務省の警察だった。つまり軍は革命後に国民の支持を得ながら、主導権を握るために、温存されたということだ。
そして最終的な段階で、軍はムバーラク大統領の辞任を発表し、エジプトが新しい時代を迎えたことを国民に伝えた。その流れのなかでは、ムバーラク大統領自身は大統領職からの辞任を、自らは発表してはいないのだ。
本来であれば、ムバーラク大統領は600人もの犠牲者を、生み出しているのであるから、革命達成後には即時逮捕され、拘留され、次いで裁判にかけられるのが順当な手順であろう。
しかし、革命達成後もムバーラク大統領は彼の所有する、シナイ半島のシャルム・エルシェイクにある、お気に入りの別荘に留まり続けている。一説によれば、彼にはガードが付けられている、ということだが本当であろう。
ムバーラク大統領は昨年、胆嚢摘出の手術をドイツで行い、その後、シャルム・エルシェイクの別荘で療養生活に入ったが、それが長期化すると、国民の間から病状悪化、退陣の噂が流れたために、無理を押してカイロに戻った、という経緯がある。革命騒ぎでシャルム・エルシェイクに引っ込んだのは、ムバーラク大統領にしてみれば、願ってもないことだったのかもしれない。
ムバーラク大統領と彼の家族については、在外資産の凍結や、出国禁止ということが話題に上っているが、なかなか、逮捕そして裁判という話しは、出てこなかった。
これでは革命ではなく、大統領から軍の幹部への、臨時的な最高権限の委譲、ということになるのではないか。革命後の力関係を見ると、軍最高評議会と、与党国民党、そしてムスリム同胞団が突出している。
9月に予想されているエジプトの地方選挙では、国民民主党とムスリム同胞団との戦い、ということになるのではないか。国民民主党は党名を変更して選挙に挑もうし、ムスリム同胞団も世俗的イメージを出すために、既に自由公正党と命名した政党を設立している。
それ以外のエジプトの組織や政党は、この二つの党に比べると、全く格落ちという感じがしてならない。そのことは、来たるべき選挙での結果にも、現れてこよう。
ここに来てやっと、大衆による革命は、大衆に何をもたらしたのか。大衆の革命は軍によってクーデターに、摺りかえられたのではなかったのか、という疑問を、エジプトの大衆自身が感じ始めたようだ。
大衆の手で始められ、多くの犠牲を生み出した革命が、真に大衆のものになるためには、第二革命運動が必要であろう。エジプトではその兆候が見え始めている。しかし、それだけのエネルギーがいまだに十分に、大衆に残っているであろうか。そして、アメリカやイスラエルは再度のエジプトの、不安定化を望むのであろうか。