3月22日に東京を出発し、仙台の友人宅で仮眠をとり、23日仙台から近い石巻の被災地に、救援物資を持って入りました。遠望では被害がなさそうな地域もありましたが、近づいてみると、建物の一階は全て破壊され、二階以上が、ようやく原形をとどめている状態でした。
街中は車が何台も折り重なっており、残骸が道路の両脇に、寄せられてありました。その残骸と泥をかたづけるだけでも、大変な時間と人手が必要だと思います。しかし、放っておいては二次災害の、伝染病に襲われることになると思います。
緊急に地域や組織の代表が、現地に救援物資を届けるとともに、現地を視察してきて欲しいものです。それをぜひ多くの人たちに、語って欲しいと思います。
石巻では水が無い、電気が無い、食料がない、といった状態が全体に広がっています。しかし、三陸海岸沿いはもっとひどい状態です。
以下は岩手県陸前高田市に住む進学塾を経営していた、高校の同級生からの連絡です。
千田です。
何かと気づかい有難うございます。地震の時は大船渡町に居ました。
はじめ、たかおくくり、車で走っていましたが、後で考えると、数分で津波に飲み込まれた事でした。九死に一生を得た思いです。
その後、電気。水道、電話が普通になり。昂揚学院の書庫等々、転倒散乱し、未だそのままの状態です。翌朝、徒歩で、盛町を見て歩きましたが。その惨状は筆舌に尽くしがたく、直ぐ問題は、水が無いこと、米、灯油が突然のように、店頭から消えたこと、蝋燭、電池も又消えたこと、限り無く、何より、ガソリンがストップし、動きが取れません。
テレビは勿論、なし、ただラジオのみが情報源、捲ら状態、時間、日を重ねるに従って、事の凄まじさを思い知らされ、瓦礫、木材、識別不能な何百と言う遺体が渾然一体となり、現実と夢の世界が倒錯した不思議な感情が交錯する瞬間が時として浮上?
昨日より、漸く、途切れ、途切れなれどがありましたが携帯が通じる様になり、開いたら、多くの安否を気遣ってくれるメールがありました、有難うございます。
今は日々、自分の肉親の遺体探し、何千の人々が文字どおり、きのみ、きのままなので、親戚、縁者に身を寄せ、又、大企業、公務員を除く、大部分の人々は会社、その物が無くなり、先の見通しが無く、これからが、本当の地獄の苦しみが始まるのではと、危惧しています。
チリ地震の時は高度成長への時代で、若者がまだ多くいたけど、今回はテレビで承知の如く、老人の方が圧倒的に多く、復興は前回と比較にならないほど困難と思われます。今はただ、出来る限り頑張りたいと思います。何時の日か笑い飛ばせる日を夢見て。