「チュニジア大衆革命の経緯と今後」

2011年1月23日

     「チュニジア大衆革命の経緯と今後」

 チュニジアのベン・アリ元大統領は、1987年にブルギバ大統領を無血革命で追放し、後継の大統領に納まった。当初彼はイスラミストに対しても、穏やかな対応をし、国民一致の政府実現を考えていたようだ。(ブルギバ大大統領はスカーフの着用を禁止し、断食すらも、しないほうがいい、と国民に言っていた、つまり完全な世俗派だった)

しかし、その後、1989年に選挙をしてみると、ナハダ党は国会議員選挙で、17パーセントの票を集めたのだ。このためベン・アリ大統領は、ナハダ党の対応に、著しく危機感を抱いた。この年の選挙のショックから、ベン・アリ大統領はイスラム組織に対して、厳しい対応を採り始め、ナハダ党は禁止されることになった。

多くのナハダ党の幹部が、外国に逃れ逮捕を免れた。このチュニジアでのベン・アリ大統領の動きは、エジプトの故サダト大統領の経緯と、非常に似通っている。サダト大統領も大統領に就任して以来、イスラム組織(ムスリム同胞団)に対し、緩やかな対応を採った。

しかし、その後、暴動が起こり、サダト大統領はムスリム同胞団を禁止し、イスラム勢力に対する敵対姿勢を、鮮明にしていった。そして、1981年サダト大統領は、ムスリム同胞団の分派のメンバーによって、第4次中東戦争の勝利を祝う、軍事パレードの中で殺害された。

経緯は異なるものの、アラブの国ではイスラム組織に対して、好意的な対応をした者が、最終的には殺害されるか、追放される運命にあるのかも知れない。

さて、それでは今回のチュニジア大衆革命の後、チュニジアではイスラム勢力が、どう動いてくのであろうか。チュニジアのイスラム組織の中で、最大規模と思われるナハダ党の場合、現段階では「穏健なイスラム組織」であることを強調し、政治に参加していく、方針を明らかにしている。

しかし、同時にナハダ党は、「十字軍やユダヤ教徒と戦っていく」とも宣言している。つまり、ナハダ党が語った穏健イスラム組織というのは、あまり信用できないのではないか。

ナハダ党の幹部たちの多くが、イギリスに逃れ、その他の多くは、20年前後、チュニジアの刑務所に、閉じ込められていたのだ。従って彼らには、現在のチュニジアの大衆の意向が、あまり分かっていないのではないか。そうであるとすると、今後予測されるのは、チュニジアの一般大衆と、ナハダ党メンバーとの、意見の食い違いが、鮮明になってくるということだ。

もちろん、これから活発化してくる、チュニジアの各政党との軋轢も、強まっていこう。そうなると、非合法手段がナハダ党や、その他の政党メンバーによって、実行される危険性が、高まるということだ。