「見えすぎる時代の怖さ・二つの事件」

2010年11月 2日


 最近、世界で起こっている出来事が、あまりにも見え透いたことのように、思えるような気がする。とんでもないような事件と、それに対する説明が、どう考えても嘘だろう、と思えてならない気がするのは、私だけだろうか。

 第一に挙げるのは、トルコのイスタンブールで起こった、警察官のバスを狙った特攻テロ事件だ。特攻テロ犯がイスタンブールのタクシム広場に停車している、警察の乗るバスに向かって突進し、バスに行きつく前に爆発したために、特攻テロ犯は死亡し、警察官15人と民間人17人が、負傷するという事件だ。

 この事件について、最初に流れたのはクルド労働党(PKK) によるテロ、という説明だったが、どう考えてもそうではないと思っていた。なぜならば、PKK はこの前の国民投票前から、停戦宣言をしていたからだ。国民投票の結果、トルコの憲法が改正され、結果的に、クルド人の立場が改善される可能性を前に、テロを起こすわけがない。

 もちろん、PKKは事件との関連を否定しているが、その後の説明は、PKKのなかの過激派がやったのだ、という説明だった。しかし、ばかげているのは、このPKKの過激派は現在収監されている、アブドッラー・オジャランPKK議長を支持する、グループだというのだ。

 しかし、肝心のアブドッラー・オジャランPKK議長は、暴力的抵抗活動をやめるよう、メンバーに呼び掛けている。つまり、アブドッラー・オジャラン議長を支持するメンバーが、この段階でテロを行うことは、あり得ないということだ。そして、出てきた新犯人像は、影の政府とも、マフィア・グループとも呼ばれる、エルゲネコンだった。

 イエメンの爆弾テロ事件も、ある意味で共通している。航空機に爆弾が積まれ、アメリカのシカゴにあるユダヤ教会に、送り届けられる途中で、発覚したという事件だ。

 この事件では、イエメンの女子大生が、犯人として浮かび上がってきた。それは、彼女の携帯電話の番号が、荷札に記されてあったからだ、というものだった。しかし、誰が考えても、自分の携帯電話の番号を、爆弾の荷札に書く人はいないだろう。案の定、間もなく犯人は他にいて、その女性が犯人ではないとして釈放されている。

この容疑者が犯人で無いことが、早急に明らかになったのは、彼女がイエメンのしかるべき有力者の、娘であったからであろう。イエメンで携帯電話を所有する若い女性は、有力者、金持ちのお嬢さんに、限られると思われるからだ。そうでなければ、そう簡単には釈放されず、長い間、劣悪な刑務所、留置所に放り込まれたままになっていたろう。

 この事件でも、その後、まさに取ってつけたように、真犯人あるいは背後で動いたと思しき人物の、名前と写真が公開されている。しかし、それはあくまでも、便宜上行われていることであって、実際には事件と関係ないかもしれないのだ。

 世界中で起こっている、大事件にまつわる説明が、最近このように、見え透いたものに、なってきているのではないか。それは、計画者たちが単純な思考に基づいていること、それを調べる側も単純になってきていること、加えて、そのニュースを受ける、受け手の人たちも、単純になってきているからではないのか。

 もっと分かりやすく言えば、単純に犯行が計画され、単純に取り調べられ、そして、単純にそれが受け止められる環境に、現在の社会はなってきている、ということだ。それは、世界全体が事なかれ主義に陥ってきている、ということではないのか。