「二人の知人からの抗議メール」

2010年9月12日


 9月9日に「コーランを焼くというキリスト教団の愚挙」、という原稿をブログに掲載したところ、二人の知人から抗議のメールが届いた。

一人は敬虔なクリスチャンで、彼は「キリスト教徒の中にもいろんな考えを持っている人がいる、コーランを焼くことに反対の人が多数なのだからキリスト教徒全員の意向ではないのだ。」という内容のものだった。

確かのそうであろう、アルカーイダはイスラム教徒といわれているが、アルカーイダの行っているテロ行為を、支持しているイスラム教とは、少数派であろう。それと同じことが、キリスト教徒の場合にも、言えるということだ。

もちろん、私もキリスト教徒の多数が、コーランを焼くことを、よしとしていないことは分かるが、この行為が愚かなことだということを、第三者の立場から言うことは、イスラム教徒に対して、ある種の安堵感を与えるのではないか、と考えたからだ。

もう一人の抗議は「イスラム教徒の肩を持ちすぎている、既にイスラム教徒はアメリカ国旗を燃やしているではないか、貴方が考えるほど、イスラム教徒は寛容ではない。」といった内容のものだった。

この抗議を寄せた人は、アラブ関係の仕事をしている人なのだが、どうも仕事を通じて、アラブ人に対する不満を、抱いているのではないかと感じた。その不満が、イスラム教徒に対する厳しい見方を、させているのではないか、と思えたのだ。

ブログのなかで聖書を燃やすことは、無いだろうと書いたのには、色んな思惑があってだった。イスラム教徒にしてみれば、イエス・キリストも預言者の一人であり、キリスト教もイスラム教も、アブラハムに始まるとしている。そうであれば、イスラム教徒が聖書を焼くようなことが、あってはならないのだ。またそうすべきではない、ということを伝えたかったからだ。

友人の言う「イスラム教徒は既にアメリカ国旗を、燃やしているではないか」いるということとは、根本的に異なるのだ。国旗と聖書では、その持つ意味が、全く異なるということだ。

国旗を燃やして、相手国に抗議するということは、これまで各国で行われてきたことであり、比較的見慣れた、抗議のスタイルであろう。しかし、信仰の根幹である、聖典を燃やすということは、相手の全てを否定する、ということなのだ。

私のブログを見て、イスラム教徒がキリスト教の聖書を燃やすような、愚かな抗議の形をとって欲しくない、という思いから書いたのであって、イスラム教徒のほうが、キリスト教徒よりも高いモラルを持っている、ということを強調することに、力点は置いていたのではないのだ。

もし、私の表現が稚拙であったために誤解が生じたのであれば、一言お詫びしたい。