「コーランを焼くというキリスト教団の愚挙」

2010年9月 9日


 大方のアメリカ人にとって、2001年9月11日に起こった、世界貿易センタービルに対するテロは、いまだに忘れられない事件であろう。およそ3000人の人たちが、このビルの中で炎に包まれて、死亡したのだから、無理もないことであろう。

 しかし、それだからと言って、キリスト教徒側に、イスラム教徒の聖典コーランを焼くということが、正当化されるのであろうか。いわゆる9・11事件は、ほとんどのイスラム教徒にとっても、キリスト教と同様に、大きなショックであったと思われる。

 世界貿易センタービルに突っ込んだテロ行為が、イスラム教徒によって賞賛されるというのは、イスラム教徒のなかの、ごく一部だけであって、実際には、ほとんどのイスラム教徒は、悲惨な事件として、捉えている。

 今年の9月11日、アメリカのキリスト教団体が、この9・11テロに抗議して、イスラム教の聖典であるコーランを焼く行事を、断行することを公表した。その行為が、どのようなリアクションを、イスラム教徒の間に生み出すのかを、このキリスト教団体は、熟慮した上で決定したのであろうか。

 イスラム教徒は聖典コーランを手にする場合、清めのウドウを行う習わしだ。もちろん、聖典コーランは清潔な場所に、保管されなければならない、とも考えられているのだ。

 そのコーランを燃やすということは、誰が考えてもイスラム教に対する、冒涜行為であって、蛮行としか言いようがあるまい。この行為で9・11に対する抗議をするというのは、まるで見当違いであり、彼らの常識の無さを、示すものであろう。

 イスラム教徒側は、もしこの聖典コーランの、焼却行事が敢行されれば、同じようにキリスト教のバイブルを、燃やすかもしれない。しかし、意外にそれは起こらないのではないか。それは、イスラム教徒の側にこのキリスト教団体以上の、モラルがあるからだ。

 もし、私が予測するように、イスラム教徒側のしかるべき団体が、そうした行為に出なかった場合、キリスト教徒たちはそれを恥じ入るのであろうか。もし、恥じ入らないのであれば、人間としての自身のプライドを、捨て去っているということではないのか。

 聖典コーランが焼かれれば、それはイスラム教に対する挑戦として、一部のイスラム学者たちは、聖戦のファトワ(宗教裁定)を、発出するかもしれない。そうなれば、キリスト教徒は世界中で、殺害の対象になるということだ。