アラブ人と日本人の表情の違い

2010年7月11日

 中東諸国に、ほとんど毎月のように出かけるが、帰国するたびに、中東と日本とは、まるで違うという感情を抱く。

 そう言うと「当然だろう日本は中東ではないのだ」とお思いになる方が多いだろう。しかし、私が違うと感じるのは、そのことではない。中東の人たちと日本人とでは、顔かたちが全く異なるし、言葉も宗教も習慣も異なることは、よく分かっているつもりだ。

 私が何かが違うと感じるのは、人々の表情だ。中東の人たちは、一般的に明るい。もちろん国によって違いはあるが「今を楽しんで生きている」という感じを受ける。そして、それと表裏の関係で、悲しみの表情がある。どうしても取り去ることの出来ない悲しみが、同時に彼らにはあるのだ。それが彼らの表情のなかに、ただよっている。

 他方、日本人の表情を見ていて感じるのは、{無気力}{不安}「猜疑}だ。何処か不安を常に抱いていて、周囲を異常に気にし、疑いの目で人を見る人たちが、多いのではないだろうか。そして、その裏返しに、彼我の立場の違いが明確になると、一辺に尊大な態度になり、他方は卑屈になる。

 こうした類の日本人以外の日本人は「無気力」な日本人だ。特別に何をしたいということもなく、何が欲しいということもなく、ただ生きているという感じが表情に表れている。

 彼らは自分を殺すこと(自殺)も、人を殺すことにも罪の意識を持たず、特別感動的でもないのだ。何も面白いことが無いし、なににも感動しないのだから当然であろう。生きる価値や喜びなど、何にも何処にも感じていないのだ。

日本人の友人たちと話していて、電車の中で見る日本人は、相当数が精神的に、問題があるということだ。外人の友達と話している「日本人は何を考えているのか、分からないから不安だ」と言う人たちがいる。日本人を見ていてそう感じるのは、無理の無いことだろう。

日本人が皆、修行僧のように忍耐の生活を、送るようになったのは、何故だろうか。日本人がもっと気楽に、気さくに、誰とでも話せるようになるには、何が必要なのだろうか。日本人がもっと腹の底から、笑えるようになるには、何が必要なのだろうか、と考えてしまう。

その解決策の一つには、社会的な寛容さや、お祭りがあるのかもしれない。夏祭り、盆踊り、、、。お祭りを地域ごとにやってはどうだろうか。そうでもしないと、日本は皆精神病患者の国に、なってしまいそうだ。現実に、程度の差こそあれ、精神的病気にかかっている人たちは、日本国内に少なくないのだから。