愛すべき兄弟メスットの死

2010年7月 2日


 トルコの好青年メスット・シェネルが死んだ。彼は31歳だった。細やかな神経と思いやり、サービス精神の塊のような奴だった。幾つもの仕事をやり遂げ、この若さで逝った。

 彼の父親に「メスットは頑張っただからアッラ-がもうゆっくりしなさいと天国に呼んでくれたのでしょう。」と言った。

 加えて「私も18歳で故郷を出たため親にはあまり会えなかったけど、親のことは考えていた。メスットも同じだった。」とも言った。別れる時に「私も父親、貴方も父親、、、父親の気持ちは同じです。」と言った。

 後日、父親が私たちの訪問で元気づけられ、自分の息子が誇らしいと語ったという。

毎日新聞に掲載された記事

記者の目:日土友好に尽くしたトルコ人青年=小倉孝保

 在日トルコ人、メスット・シェネルさんが6月18日未明、31年の生涯を閉じた。急性心不全だった。来日して14年。祖国からの留学生支援を中心に日土友好のために生きた。その人生は、「他者の幸せのために生きられる」という人間の強さ、崇高さを改めて感じさせるものだった。

 シェネルさんは埼玉県川口市でジョギング中に急逝した。遺体はすぐに祖国に運ばれ翌日、イスタンブールのモスク(イスラム礼拝堂)で葬儀が行われた。偶然、トルコ滞在中だった私も列席したが、日本との友好親善に熱心だったシェネルさんの死を地元メディアが大きく報じたこともあり、モスクは追悼の人々であふれた。

 シェネルさんはトルコの高校から奨学金を受け17歳で仲間5人と共に来日、日本語を一から学んだ。経済的には苦しく、6人はアパートの一室で共同で生活した。仲間の一人が1万円の臨時収入を得たときは、使ってしまう前に食料に替えようとタマゴばかり買い込み、6人でタマゴ料理を食べ続けたこともあった。小遣いがないため電車に乗れず二駅、三駅を歩くことも日常のことだった。

 ◇奨学金を創設し在日同胞を支援

 シェネルさんは東京農大、筑波大大学院で遺伝子工学を学ぶうちに多くの日本人の世話になり、「日本人以上に日本好きになった」。一緒に来日したジャン・イスマイルさん(31)は、「トルコ人は日本が好きなのに、日本人がトルコのことをあまり知らないことにシュメルさんは驚いた。(両国のために)何かしなければ、と口癖のように言っていた」と述懐する。

 シェネルさんは01年、日本トルコ育英会の創設に加わり、在日トルコ人ビジネスマンらから募った寄付で、トルコや中央アジアからの留学生に奨学金を出す活動を始めた。これまでに支援したのは50人以上になる。彼をよく知るアジア学生文化協会の工藤正司理事(67)は、「年間100人のトルコ人を日本で学ばせたい、と目を輝かせていた」と語る。私も生前、シュメルさんに会う機会があり、活動への思いに感銘を受けた。

 シェネルさんは約5年前から友人と共同でケバブ(トルコ焼き肉)の店を開き、利益の出るようになった近年は毎月、寄付をしてきた。「自分の収入は抑えながら毎月、真新しい封筒に現金を入れ事務局に持ってきた。『早く1億円の収入をあげ寄付したい』と、笑いながら話していた」と在日トルコ人、セルカン・チェグラルさん(35)は言う。

 ◇120年前の海難 救援物語を翻訳

 シェネルさんは06年、仲間たちと日本トルコ文化交流会を創設したほか、トルコで両国ユースのサッカー親善試合も開いた。同年、小泉純一郎首相(当時)がトルコを訪問した際にはトルコ側通訳も務めた。日本での世話人、東京財団上席研究員の佐々木良昭さん(62)は言う。「遊びたい盛りなのに、祖国と日本の友好のことばかりを考えていた。人の喜ぶ顔をみることで、幸せを感じる人間だった」

 日本とトルコの友好を物語る話として、1890年に和歌山県・串本沖でオスマン・トルコ帝国海軍の艦船エルトゥールル号が沈没し、漁村民が乗組員を看病したことが有名だ。豊かではない日本の庶民が示した他者への親切、無償の献身にトルコ人は感謝し今も敬意を払っている。

 日本の非営利団体「ふるさと日本プロジェクト」が2年前、この海難事故を題材にまんが(冊子)を作製した。シェネルさんはボランティアで翻訳し、5月18日にトルコ語版が出版されたばかり。これがシェネルさんの最後の友好親善活動となった。今、トルコの学校で子供たちが日本との友好物語を読んでいる。シェネルさんが属したサッカーチーム監督で成田空港で遺体と対面した杉浦金男さん(59)は「穏やかな顔だった。やり遂げたことに満足していたのだろう」と話す。

 葬儀翌日、シェネルさんの実家を訪ねた私に、父アブニさん(58)はこう語った。「死んで初めて、息子が日本でやっていたことの大切さを理解した。私が彼の思いを引き継ごうと思う」。さらに、在日トルコ人の間ではシェネルさんの名を冠した奨学金創設構想も持ち上がっている。生き急いだシェネルさんだが、彼の思いは確実に根付いている。

 串本漁民の行動が120年たった今も日本・トルコ友好の礎になっているように、シェネルさんのまいた友好の種は、いつか美しい花を咲かせるだろう。その生き方から、くみ取ることは多いのだ。(外信部)