ヨルダンの首都アンマンで、ヨルダンの元皇太子ハッサン王子と、日本財団の笹川会長が共催する、国際会議があり出席した。会議では旧知のイラク・クルド人(元イラク政府閣僚)友人に会い、旧交を温めると同時に、今後の協力について意見を交わした。
彼はなかなかのやり手で、世界中からスポンサーを探してきては、イラクの民主化、社会安定の会議を繰り返している。そして、彼の妻はアラブ、イラク人の国会議員、まさに夫婦でイラク国民連帯活動に、専念しているということであろうか。
もう一人、ヨルダンで会いたかった人物は、ヨルダアンのアンマンを拠点として活動している、イラク人ビジネスマンだ。彼とは私の友人の紹介で、お会いすることになっていた。
そのイラク人は私をホテルに訪ねてくれ、イタリア・レストランに招待してくれた。70歳を過ぎた彼は、イラク人としての長い経験を持つことから、話の内容は興味深いものだらけだった。ビジネス、政治、趣味の話と、レパートリーは実に広かった。
当然のことながら話題の中心は、次期イラク政府についてだった。アッラーウイ氏のイラーキーヤ党、が選挙では第一党になり、当然のことから彼に組閣をする、第一の権利が与えられるはずだった。
しかし、イラーキーヤ党は国会議員の過半数に満たないことから、他党との連立が必要であった。その間隙を縫って、マリキー首相はアッラーウイ政権樹立を潰そうとし、一部地域での票の再計算を要求した。
結果的に、選挙委員会が彼の要求を呑み、バグダッド市などで票の再計算が行われた。しかし、それは最初の計算と変わらず、アッラーウイ氏のイラーキーヤ党が、第一党であることは動かなかった。
そうしたごたごたのなかで、シーア派の各派が動き、民間の首相候補人気投票が、サドル派によって行われたり、イランとの連絡が取られたりした。元首相のジャアファル氏が出てきたり、イラク・シーア派の名家の出である、ジャアファル・ハキーム氏の名前が上がったの、もこうした動きのなかでの出来事だった。
その一人一人について意見を聞いてみると、意外なことが幾つも分かってきた。たとえば、ジャアファル・ハキーム氏は宗教的権威の名家の出ではあるが、彼は極めて世俗的でノーマルな感覚の、持ち主だということだった。
マリキー首相については、まじめだけが売り物で、融通の効かない男だ、と半分褒め半分けなしていた。そして、いま最もイラクに必要な首相は、アッラーウイ氏だ、と彼は言っていた。
それは、アッラーウイ氏の政権が比較的、イラク社会の治安を改善したことが、あったからであろう、彼はアッラーウイ氏を支持する理由として、彼の強力な指導力を挙げていた。
彼曰く、イラクにはいま強力な指導者が必要なのであって、右顧左眄する指導者ではないというのだ。まさにそうであろう。いま世界は大変革期の嵐の海にある。いずれの国も強力な指導者を、必要としているのではないか。
強力な指導者は独裁者にも繋がる、危険があることは否めないが、それが無かったら、ただ舵輪を失った小船が、猛烈な嵐の海に浮かぶようなものではないのか。その運命は述べるまでも無い、沈没するだけなのだ。
彼は最後に、マリキー首相は8月までは、首相の座を維持するだろう。そして、アメリカ軍が撤退し終えたとき、新たなイラクの政府が誕生するだろう、と語っていた。その政府が独裁ではない、強力な指導者に導かれることを、願うのみだ。