イスラエル青年層の兵役拒否は大きな変化の兆し?

2009年10月15日

 戦後の若者は、年々国を守るという意識が薄れている、という意見をよく耳にする。しかし、それは青年の意識によるというものではなく、彼らを取り囲む社会環境が、生み出す現象ではないのか、といつも考えている。

 寝る場所があり、食事があり、ちょっとアルバイトをすれば、缶ビールとタバコが買え、いろんなメーカーが若者向けの、安価な衣類を売っているようでは、真剣に頑張って働いて、お金を手にしなければならない、という意識は生まれにくい。

 こういう世の中では、ある言い方をすると、頑張る奴がかえって、異常に見えてくることもあろう。頑張る必要が無いのに、何故頑張っているんだろう。いまが平和なのだから、このままでいけばいいじゃないか、といった心理だ。

 振り返って、サラリーマンの場合も、会社はどうせ首にしないのだから、下手に管理職になろうとして、無理をする必要は無い、まさにぶら下がりで行くほうが、よほど気楽な人生が送れる、と思う人がいてもおかしくない。

不都合なのは肩書きが無いのと、少し給料が安いことぐらいなものだ、がそれを気にしなければ、何も問題は無い。公営住宅に住んでいれば、莫大な住宅ローンを支払う必要も、無いと考える人もいよう。

つまり、日本社会は成熟しすぎたために、現代の若者の心理が生まれているのだが、それとは少し意味合いは異なるが、大人たちにも共通した心理が、あるのではないか。

四方をアラブという敵に囲まれたイスラエルは、これまで必死にアラブとの戦争に備え、常に勝利してきていた。そして遂には、敗北ということを忘れかけていた。

そうした心理状態のなかで起こったのが、レバノンのヘズブラとの戦争だったが、この戦争では心理的な緩みから、大きな打撃を受け、精神的に明確な敗北を記録することになった。

しかし、その後もイスラエル政府要人たちは、責任の所在追及だけで、本当の意味での危機感を、忘れてしまっている。そのなかで、かろうじて彼らが守ろうとしているのは、イランの核兵器による攻撃、ということのようだ。

しかし、それはある意味では、起こりえない可能性がある、あっても大分先のことだ、という情報が氾濫しているため、何処までイスラエル国民や、政府のなかに緊迫感があるのか分からない。

そうした緊張感の緩みのなかから、出てきたひとつの社会現象が、イスラエルの高校生による、徴兵忌避運動であろう。88人の高校生がガザ侵攻は赦せないとして抗議し、占領を非難し、暴虐で、人種差別的で、非人道的で、違法で、非民主的で、良心が無いのがイスラエルの対パレスチナ政策だ、と非難しているということのようだ。18歳の青年たちはいま徴兵を前に、それを忌避する行動に出たのだ。

中東地位域にあっては、経済的に豊かで、自由が保障されているイスラエルでは、パレスチナ人に弾圧を加えなければ、自分たちは平和に暮らせる、と信じ込む若者たちが、増加し始めているのかもしれない。

他方では、イスラエルがもうユダヤ人の夢を、満たしてくれない土地になったと思うようになり、イスラエルから離れていく人たちも、少なくないようだ。ニューヨークで、東京で、トルコのアンタルヤで、土地と不動産を買いあさる、ユダヤ人がいる、という話を何度か耳にした。

アメリカから来たある外人が「貴方は、イスラエルはあと、何年持つと思いますか?」と聞いてきた。明確な返事はしなかったが、その不安が無いわけではない。

イスラエルの場合は、日本と似たような社会変化のなかで、中年のあいだでも、青年のあいだでも、国防意識が薄れていったのではないかと思うが、日本とイスラエルは、根本的に全く置かれている条件が異なり、多くの、いまにでも命をかけて攻撃してくる敵が、イスラエルの周辺には存在するのだ。

日本はそのことを全く無視していっていいのだろうか、日本にはイスラエルには存在する不安が、全く無いと言えるのだろうか。