古い知人が死亡した。彼の名はシャヒーク・エルホートで77歳が享年だった。彼との縁は1974年に遡る。
私がリビアの大学を終え、レバノンのベイルートに駐在員として、住み始めてからの知り合いだった。彼は当時、PLOのレバノン代表として、ベイルートに居を構えていた。
彼は私が一介の25、6歳の若造であったにもかかわらずに、気さくに会ってくれ、パレスチナの話をしてくれた。事務所は大きくはなかったが、結構毎日忙しそうに、動き回っていたようだ。
ある朝、約束があり彼の事務所に出かけてみると、窓ガラスが割れ、事務室内は散々な状態だった。しかし、彼は「クッス・ウンム=マザー・ファッカー」と言って笑い、何事もなかったように、散らばる事務室の片づけを自分で始めた。
当時42.3才だったろうか。なかなかのハンサムな中年で、しゃれっ気もあった。ベイルートは中東のパリと言われているだけに、ベイルートでは1カ月程度の遅れで、パリのファッションのコピーや、本物を購入できたのだが、彼は何時も、最新のファッションで身を包んでいた。
レバノンが内戦状態になり始めた頃に、彼の事務室を訪ねた時は、私が彼の部屋に通されて待っていると、入室するなりSWのリボルバー式拳銃を、腰の背から抜き取り、机の上に置いたことがある。
「それはアメリカ製じゃないの?」と言うと「いいものは国籍に関係ないさ」と笑って見せた。パレスチナのゲリラ(コマンド)と言えば、カラシニコフ銃が定番で、最も知られていただけに、パレスチナ人の彼が敵性国である、アメリカの拳銃を愛用しているのは、若い私には意外だったのだ。
シャヒーク・エルホート氏が私に示してくれた現実は、その後のPLOの動きにも表れてきた。結局、PLOはアメリカをイスラエルの擁護者として非難しながらも、アメリカ抜きの問題解決はない、という現実路線に向かって行ったのだ。
その成果が、オスロ合意であり、ホワイト・ハウスでの和平調印であり、アラファト議長のガザ帰還であったのだ。
若い私には、極めてカッコイイ存在であった彼は、1993年の段階で、PLOの結成当時からのメンバーであったにもかかわらず、イスラエルとの和平を理由に、PLOから脱退していたのだ。
彼は1935年、現在のイスラエルのジャッファの出身で、1948年に父祖の地を追われ、レバノンに移住していたのだ。考えようによっては、自分に正直な人物だったのであろう。もし、和平に反対していなければ、彼は押しも押されぬ、パレスチナ自治政府の要職に就任し、多額の金を得る状態に、なっていたのであろうに。
77歳になった彼の晩年の写真をネットで見た。かつては、なかなかのハンサムな人物だった彼が、何処にもいそうな普通の老人の顔に変っていた。人が老いるということは、そういうことなのだろう。
老いた彼の表情には、寂しさは感じられるものの、政治に携わる老人に共通する、不潔感は感じられなかった。そのことは、彼の死が大往生であった、ということだろう。