パレスチナ問題の先が、全く見えなくなり、当時のアラファト議長も、なす術を失ったとき始まったのが、ハマースによる、第一次インテファーダだった。
ヤーシーンという名の、ガザのムスリム同胞団のリーダーが、別動隊として組織させたのが、ハマース(ムスリム運動)だった。以来、ハマースのメンバーは一般のパレスチナ人も巻き込み、デモや投石による、イスラエルの占領に対する、抵抗運動を、継続していくこととなった。
パレスチナ解放機構が、全く政治的なカードを切れなくなり、しかも、レバノンを追われて、武力闘争もままならなくなったときだけに、このハマースによる抵抗闘争は、パレスチナ人の間で、次第に支持を拡大していった。
そして、アラファト議長がガザに帰還し、自治を本格的に始める段階になった頃には、アラファト議長の率いるPLOと、ほぼ互角の支持率に近づいていた。もちろん、そうは言っても、パレスチナ自治政府議長選挙では、アラファト議長が当選し、その後も、彼がパレスチナを主導していくこととなった。
しかし、アラファト議長が死亡し、その後を継いだマハムード・アッバース議長の人気は、それほど高くはなかった。その原因は、彼にはアラファト議長にあったような、カリスマ性がなかったことと、汚職体質にあったのだろうと思われる。
イスラエルの言いなりになる、マハムード・アッバース議長の路線に、嫌気がさしたパレスチナ住民は、首相選挙でハマースのハニヤ氏を選出した。しかし、それはパレスチナ権力内部に対立を生み、結果的に、ガザでのハマース対ファタハの、武力闘争が起こっている。
このガザ地区の、パレスチナ内部の武力闘争では、ハマースが勝利し、ファタハのメンバー(マハムード・アッバース派)は、ガザから逃げ出すこととなった。そして、ガザ地区からのハマースによる、イスラエルに対するロケット攻撃が継続され、イスラエルはガザ地区に対する、本格的な報復攻撃を行った。
結果は惨憺たるものだった。多くのガザの住民が犠牲になり、主要な建物や住宅が、多数破壊されることとなった。
これが簡単なハマースの誕生から、今までの経緯だが、ハマースはガザ戦争を戦ったのち、支持率をあげファタハを抜いていた。しかし、ここにきてハマースに対する支持率は、低下しているようだ。
最近、エルサレム・メデイア・アンド・コミュニケーション・センター(JMCC)によって行われた、世論調査によれば、ハマースの支持率は、今年1月には27・7%だったものが、18・8%に下落している。他方、ファタハは1月の段階で、26%の支持率だったものが、34・9%に上昇している。
ハマースが支持率を下げたのは、ガザ戦争の被害が甚大であったにもかかわらず、ハマースのアラブ世界での認知度、支持率は上がらず、エジプトからもまともには、相手にされなかったこともあろう。
ガザの住民やパレスチナ人全体からすれば、骨折り損のくたびれ儲け、ということであろうか。それと、イラン選挙の影響も、少なからずあるのではないか。宗教勢力が権力を握った後は、民主派、世俗派には、発言の機会が狭められる、と考えたのかもしれない。