イラクはいまだに危険すぎる

2009年5月13日

「建設ラッシュのドーハ市内」

 

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カタールの首都ドーハで開催された国際会議の後、イラクのエルビルで開催される会議に向かった。事前に入国ビザの問題があるのではないかと心配していたが、入国は会議主催者側の計らいで、極めてスムーズだった。現地到着は午前3時半、取りあえず投宿先のシェラトン・ホテルで休憩し、同日の9時から会議に参加した。

 それはいいのだが、会議に参加してくれという意向だったので、日本からの参加者が来ているという程度であり、私はオブザーバーを決め込んでいたところ、会議のパンフレットには、私も発表者の一人に名を連ねているではないか。

 同時通訳にはなっているものの、会場を見渡してみると、どうやら英語に堪能とは思えない人たちがほとんどだった。私が話すとなれば、会議の主催者や外国からの人が対象ではない、あくまでも現地の人に向けて話さなければならない。

 そこでアラビア語で演説することにした。会場で何を話すかあらすじを決め、壇上に向かった。話したことは戦後の日本が発展した秘密だった。秘密といっても日本人にとっては何も珍しいことではない。趣旨は以下のようなものだった。

1:戦後の日本が復興に向けて国民が一致団結できたのは、天皇の存在があったからだ。

2:日本人は自分の知識を他と共有しようとする。(具体例として日本人と韓国人の違いを説明)

3:一致団結は能力を百倍にもする。(具体例として日本人とインド人の違いを説明)

4:日本人にとって仕事は趣味でもある。(レクサスは乗用車よりも芸術品) 

 

 これらのこと以外にも、日本の会社の説明もした。日本には1000年続いている会社があるという話だった。伝統技術の維持が重要なことも話した。

 正直なところ、イラク人が私の話をどう受けたのか気になった。しかし、会議の休憩時間に入ると、イラク人にとって私の演説は、大きなショックを与えたようだった。何人もの人が話しかけてきた。そのなかの一人に法学博士で元教授、現在はイラク政府の閣僚がいた。

彼は私に「あなたは詩人か?それとも哲学者か?」と問いかけ、私が演説の冒頭で話した「知識は行いと一致しなければ意味がない」という話に大きな興味を持ったようで、「アラブにもあるんですよ。」と次のような哲学者のことわざを紹介してくれた。「善行なき知識は危険であり、知識なき善行は力を持たない」。私の話したこととまったく同じだった。

一般の参加者も、私がアラビア語を話せると分かってか、次から次と話しかけてきた。それ以外に、私が会場の外でタバコを吸っていたり、投宿先のホテルで一人椅子に座っているときに、個人的に話しかけてくる人たちもいた。結果的には、それが実に興味深い話を私に聞かせてくれることになった。

一例を挙げよう。

クルド人の高齢の婦人は、自分のこれまでの悲惨な人生を語って聞かせてくれた。なんとなく品のいい優しいその婦人とは、初対面から気があって、会議の始まる前から知り合いになっていたのだ。ところが会議が進行し、各人種、宗派がお互いに和解する必要があるという話題に移ったとき、彼女は会場の二階の席から突然大声でわめきだした。

 事前に彼女と私の二人だけの会話がなかったら、たぶん変な老女がヒステリックにわめき散らしているとしか、受け止めなかっただろう。

彼女はサダム体制に時に家族親族が虐殺され、新体制になってからも家族を殺されているのだ。

 彼女は「いまだに謝罪がないんですよ、政府は補償すると言っていますが、補償して済む問題ではないですよ。私の悲しみは補償だけで済むものではありません。私と同じような境遇の人たちが、イラクには何万人何十万人何百万人もいるんです。まずは謝罪から始まるべきです。それから和解のための具体的な話が進められ、補償の話も同時進行で進められるべきだと思います。私が大声を出したとき貴方はびっくりしたでしょうが、私は自分気持ちを、悲しみと怒りで押さえ切れなかったんです。」

 彼女の家族親族が非情な待遇を受けたのには、歴史的な背景があった。彼女の先祖は、イランから160年ほど前にイラクに移り住んだ人たちだということだ。その古い話が蒸し返され、イラン・イラク戦争時には「お前たちはイラン人だ、スパイだと決め付けられ、拷問を受け殺されたというのだ。

 同時に、家族はイラク国籍を剥奪されもしたということだ。それが回復されたのは、新生イラクに変わってからだった。しかし、彼女の国民番号は以前の7000番台ではなく、35番に変えられたということだ。つまり、新イラク人であり、元々のイラク人とは差別されているということだ。

 イラクのサッダーム体制が打倒された後も、彼女の家族がシーア派であるということから、またスンニー派から敵視され、攻撃されるようになった。そのなかで、何人かの家族が殺されたというのだ。彼女は「私たちはクルド人だけではなく、シーア派でもあるんです。つまり、憎しみを二重に受けることになっているんです。

 ほかのクルドの男性は、私にサダム時代、ケミカル・アリー(サダム時代の閣僚でクルド人の毒ガスによる大量虐殺の首謀者)が、どんな虐殺をしたのかを語って聞かせてくれた。サダムについても、彼の息子についても、話していたが、とても人間の行うこととは思えない内容だったのでご紹介したくない。 

 クルド人だけではない。スンニー派の男性も話しかけてきて、いまスンニー派の置かれている不利な状態について話してくれた。彼は「私はバアス党員だったことを今でも誇りに思っているし、サダム大統領を尊敬している。彼は最後まで、イラクから逃げ出さなかった。」と語った。

 シーア派の若い女性とも親しくなり、私がシーア派地区であるサマーワに行った話をしたところ「日本のおかげでサマーワはよくなった。皆が日本に感謝し、尊敬している。」と語ってくれた。

 トルコマンの男性も話しかけてきた。彼はトルコマン人(トルコ系イラク人)の不平等な立場や、クルド人によるキルクークからの追放問題などについて、説明してくれた。この男性は、ほかの参加者たちに比べ、慎重な話し方をし、決して目立つような言動をしなかった。それだけいまトルコマン人は、危険な立場にあるのであろう。

 イラクのクルド地区、そのなかの最も平和な状態にある、エルビルでの会議は、実に安全なものだった。しかし、私の安全を配慮し同行してくれた、トルコ人の仲間の話を聞いて、安全なのはクルド地区のなかの、エルビルとスレイマニヤだけであり、他の地域は危険がいっぱいであり、何時爆発するか分からない状態に、あるということだった。

クルド地区でも人が一桁死んでもニュースにならないのだ。首都バグダッドばかりではなく、イラクでは二桁以上犠牲にならないと、ニュースにはならないということだ。

 そんな危険な状態のなかでは、不平等がまかり通り、殺人が普通の出来事であるだけに、住民の不満と怒りは、頂点に達しているということだ。彼らは何時、死んでもいいとさえ、思うようになっているのだ。

 エルビルでの会議のメイン・テーマは「和解と発展」だったが、この会議が開催されたことにより、少しでも、和解が現実のものになって行くことを期待したい。会議の最後のスピーチで私は「教育が大事です。しかも平和と愛を教える教育が、明日のイラクを決めます。」とイラク人に訴えてきた。あまりにも場違い過ぎたかもしれないのだが。

「エルビルの会議場中央が筆者 」「エルビルの街の風景住宅街」

 

DSC01677.JPGのサムネール画像

 

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