内臓移植シェイク・アズハルの見解

2009年3月20日

 他人の健康な内臓を取り出し、移植することによって、病気を持っている人が救われるということは、一見理にかなったことのように、思えるのだろう。

 しかし、その移植する内臓は、新鮮さが求められる。そうなると、最も新鮮な内臓を摘出する方法は、それまで生きていた人が死亡して、すぐに取り出すという方法か、生きている人のものを、取り出すという方法であろう。

 移植用内臓の最大の供給国は、中国やフィリピンだといわれている。中国では死刑囚に対する処刑後、内臓は直ちに摘出され、移植用として提供されているし、フィリピンでは生活費を手にするために、自分の内臓を売るということが、きわめて当たり前のこととして行われている。

 エジプトでも、生体からの内臓摘出移植が行われているが、今回問題になっているのは、死刑囚からの内臓摘出移植だ。

 エジプトのアズハル大学は、世界のスンニー派イスラム学の最高峰であり、そのアズハル大学のイスラム法学最高権威者である、シェイク・アズハルが、内臓移植について許可を出したということは、世界中のスンニー派イスラム法学者の見解となりうるのだ。そうなると、アッラーの権限で許可された内臓移植は、その瞬間から人間の権限に、移されることになる。

 一旦権限が人間の手に移されると、人間は勝手気ままに、その権限を行使することになる。死刑に当たらない程度の、軽微な犯罪を犯した者が、死刑を宣告される場合もあれば、死刑囚に対する死刑執行が、早められる場合もあろう。

 人間の身体はアッラーから頂き、それを使って人間は現世で善行を行い、その結果を判定されて、来世での生き場所を指定される。天国に入れる者もあれば、地獄に落とされる者もあるのだ。

 イスラム教では土葬と定められているが、それはアッラーから預かった体であることから、来ているのではないのか。そうだとすれば、死刑囚といえども、内臓を取り出して、他人の身体に移植するということは、許されないことではなかろうか。

 エジプトはWHO加盟国であるという説明が、アッラーの法に優先する口実として、まことしやかに述べられ、宗教の権威者はそれを受け入れることによって、あたかも開明派の学者といった、イメージを与えられる。しかし、その根底にあるのは、内臓ビジネスであり、人間の限界を知らない、生への欲求では無いのか。

 以前にこの欄で、カタールに亡命している、エジプトのイスラム法学者、カルダーウイ氏のアルコール許容発言に、不満を述べたことがあったが、内臓移植はそれ以上の、重大問題ではないのか。

カルダーウイ氏のアルコール許容発言は、病気などの理由により、低濃度であれば許される、という内容だったが、内臓移植は人間の生命に、直接関わる内容のものなのだ。内臓摘出が目的で処刑されるケースが起こった場合、シェイク・アズハルは「自分には関係のないこと」と言い張るのだろうか。