アッカで起こった暴動の意味

2008年10月11日

 

 東地中海の海岸に位置る、イスラエル古い街アッカは、聖書に出てくる街であり、ナポレオンのエジプト遠征の舞台ともなった場所だ。街の中には古い建物が、いまだに残っていることもあり、世界遺産のひとつに登録されている。

 この街にはイスラエルの拡張の中で、例外的に多くのパレスチナ人が、1948年に起こった、第一次中東戦争の後も残った。その結果、いまではアッカの住民人口の三分の一にあたる、5万人のアラブ系イスラエル人が居住している。(アラブ系イスラエル人とは、パレスチナ人でイスラエル国籍を有する者)

 言ってみれば、アッカはイスラエル国内にあって、アラブ系イスラエル国民が、ひとつの街の中で、イスラエル人とうまく共生しているところの、典型的な例となっていたわけだ。

 しかし、そのアッカで10月10日に暴動が発生している。ことの起こりは、アラブ系イスラエル人のじゃマール・ファルーク青年が、イスラエルの祭日であるヨム・キプールに、車で騒音を立てたことに腹を立てた、イスラエル人が襲いかかったことに始まったものだ。

 些細なことから始まったとはいえ、この暴動は規模が大きくなったために、アッカの警察200人では静止できず、他の場所から、500人の警察が援軍として、暴動鎮圧に参加することとなった。

 今回アッカで起こった暴動は、イスラエル政府が最近主張し始めている、「ひとつの国家によるパレスチナ問題の解決」という考え方を、真っ向から否定するものになりかねない性質のものだ。

 つまり、イスラエル政府はパレスチナ・イスラエルを二つの土地に分け、イスラエルとパレスチナという二つの国家にすることを断念し、イスラエル国家の中に二つの地域を設けることを、主張し始めているのだ。

 これまでは二つの国家建設による、パレスチナ問題の解決を考えていたが、その考え方には無理があるとして、イスラエルといおうひとつの国家の中に、イスラエル人とパレスチナ人が共生する方法を、考え始めているのだ。

 アッカで起こった今回の暴動は、特別な政治的意味合いを、持っていなかったとされているが、アラブ系イスラエル国民のアッカ住民の中には、あるいはイスラエルというひとつの国が最終的なパレスチナ問題の解決方法となることに対する、反発があったのではないか。

 ツビ・リブニ外相(首相になる予定)は、アッカの暴動に際して、「イスラエル人にもアラブ系イスラエル人にも得にならない暴動はやめろ、」と呼びかけたが、彼女らが考える、新たなパレスチナ問題の解決策は、早くもツビ・リブニ首相誕生前に、厳しい反発をアラブ系イスラエル国民から、受けたということではないか。

 以前から言われてきたように、イスラエルにとっての最大の問題は、人口時限爆弾なのかもしれない。現在では、イスラエル国民人口500万人のうち、その五分の一に当たる100万人が、正式にイスラエル国民となっており、彼らはイスラエル国民としての、すべての権利を有するアラブ系イスラエル人となっているのだ。