トルコ統合参謀総長の警告

2008年6月 9日

 エルドアン氏率いるAKP(開発公正党)が、トルコの政権を握って以来、トルコ国内では世俗派による、AKPに対する反発の動きが頻発してきている。それは、AKPが穏健な宗教政党だからだといわれてきた。

 そのAKPに対する反対の動きの中で、最も顕著に現れたのは、昨年の大統領選挙をめぐってであろう。AKPのギュル外相が大統領に立候補すると、軍部はネットを通じて、クーデターを起こす警告を発した。

 トルコ軍については、ケマル・アタチュルクの権力掌握以来、トルコが宗教国家化したり、不安定化した場合には、クーデターを起こし、世俗体制を守っていいという条項が、憲法のなかに記載されているのだ。

 しかし、ギュル外相の大統領立候補は、軍のクーデター無しにスムーズに進み、彼は大統領に就任した。それは欧米諸国がクーデターに反対だったことと、トルコ国民の多数がAKPを支持した結果であろう。

 トルコ軍と行動を共にする世俗政党のCHPは、ギュル大統領反対AKP反対の国民集会を、トルコの主要な都市数箇所で開催した。しかし、これも実際には国民の多くをひくつけるものに名はならなかった。全国から集めたCHP支持者や退役軍人の集会は、結果的に失敗に終わった。

 以来、AKPに反対するグループの行動は収まったかに見えていた。その後これといった動きがなかったのだ。しかし、今年に入り、4月が過ぎるとトルコの憲法裁判所が、「AKPは非合法である」という判断を下し、裁判にかけることを宣言した。

 これに先立つ、AKPによるスカーフ着用許可の決定が、世俗派の怒りを買ったようだった。というよりも、世俗派はAKPを攻撃するチャンスを、待っていたのであろう。このスカーフ問題をめぐっては、いわゆる世俗はといわれる人たちが、結構敏感かつ過激に反応していたのだ。

 ある大学の教授は、それまで大学構内や公共機関では禁止されていた、スカーフの着用許可が下りたことで、女子学生がスカーフをかむって大学構内に入ったことに激怒し、拳銃を発砲する事件まで起こっている。

 憲法裁判所がスカーフの着用をめぐり、世俗化に反するものだという判断ををするようになり、憲法裁判所とAKPの間で、この問題が闘われることになったわけだ。するとこの段階で、それまで鳴りを潜めていた軍部が、突然AKPに対して反旗を翻し始めた。

 ブユカヌト統合参謀総長がAKPに対して直接ではなく、あたかも欧米を非難するかのような婉曲な方法で、批判を行ったのだ。曰く『トルコが穏健なイスラム国家である、と呼ばれることに反対する。もしそのような言い回しが許されるのであれば、アメリカはキリスト教国家、と呼ぶことになるのか、、。』

 確かにブユカヌト統合参謀総長の屁理屈にも一理あろう。穏健イスラム・トルコ共和国やキリスト教アメリカ合衆国という呼称はなじまない。しかし、欧米諸国はトルコに対して「穏健イスラム国家」という呼称を使うようになったのには、それなりの理由があるのだ。

 世界のイスラム教徒が次第に、原理主義や過激主義に向かっているなかで、欧米諸国は「トルコこそが、穏健なイスラムを代表してくれる国家だ。」という評価を下したのだ。そのトルコを中心として、イスラム世界が欧米キリスト教世界との、対話を拡大していけば、イスラム・テロは沈静化できる、という平和的な発想に基づくものなのだ。

 このことはトルコとトルコの国民にとって、誇るべき外国からの評価であろう。しかし、ブユカヌト統合参謀総長に言わせれば、トルコが置かれている状況は、楽観が許されないのだということになる。彼はイラクが不安定化へのセンターになる危険性があり、それはトルコの安全にも関るとし、ハマースやヘズブラ、ムスリム同胞団、PKKもトルコの不安定を生み出す、元凶だと語っている。

 問題はこのブユカヌト統合参謀総長の発言が、憲法裁判所の動きと連携したものなのか、あるいは単に軍内部の意見を、代表したものかということだ。軍内部の青年将校団の、不満を解消するためのガス抜き発言であれば、あまり問題ではあるまいが、憲法裁判所との連携による発言であるとすれば、ことは面倒になる。

 トルコの憲法裁判所の長官は、大統領の指名によって決まるが、ギュル大統領が他の人物を、裁判所長官に指名すれば、トルコの司法も行政も立法も、完全にAKPの手中に落ちることになるのだ。そのことから、今回憲法裁判所が立ち上がったのであろう。しかし、それは大きなリスクをトルコとトルコ国民にもたらす、危険なものでもあるのだ。

 ブユルカヌト統合参謀総長の今回の発言は、PKKに対するトルコ政府の対応が、生ぬるいということが案外最大の理由かもしれない。彼の発言を読んでいると、トルコ国内の世俗派を大同団結させ、反AKPの行動を起こしていくためのものとは思えない。

そうあって欲しいものだ。そうでなければ、いまやっと経済成長のトバ口に立ったトルコの将来が、不安定なものになり、外国からの投資も、一斉に引き上げる危険性があるからだ。