ホロコースト(虐殺)という言葉の終わりが近い?

2008年5月11日

 ドイツのヒトラーの一味によって行われた、史上最大の犯罪、それはホロコーストだといわれて久しい。そのホロコーストという言葉は、世界中が知るようになり、以来、ホロコーストという言葉は、ユダヤ人を危険から守り続けて来た。

 言ってみれば、ホロコーストは魔法の呪文のような言葉として、世界中が聞き、受け止めてきたということだ。そのまねをしたということだろうか、虐殺という言葉が、ホロコーストと並んで語られるようになった。

 南京の虐殺は語られる度に、その犠牲者数を増やし続けてきている。語られれば語られるほど、人はそのことを真実として受け止め、脳裏に刻み込むようだ。したがって、こうした言葉は、どれだけ繰り返せるかが、大きなポイントということであろう。

 しかし、それと同様に、語られれば語られるほど、その話題は陳腐化していくことも事実だ。人は次第に、その話題に耳を貸さなくなっていきもするのだ。そして遂には、その話題を信じなくなるか、聞くことを拒否するようになっていくのだ。

 そのときこそが加害者として非難され続けてきた側の、反抗のときかもしれない。いまドイツを始めとするヨーロッパでは、次第にホロコーストに対する反論や、疑問が拡大しているようだ。

 アラブでは、ホロコーストという言葉を、ホロコーストの犠牲者攻撃に、使い始めている。ハテーブというイスラム学者が、いまイスラエルが行っているのは、ホロコースト以外の何ものでもない。パレスチナの地で、イランで、レバノンで、多くのアラブ人が犠牲になっているのは、まさに現代版のホロコーストだ、というのだ。

 もちろん、この場合、加害者はイスラエルであり、被害者はアラブということになる。それは、建国60周年を迎えたイスラエル人にとって、最も手厳しい反撃なのかも知れに。