イランは詩と芸術の国

2008年3月11日

 イランで核の平和利用をめぐる国際会議が開催され、私も招待されて参加してきた。その短いイラン訪問のなかで、感じたことを書いてみよう。

 誰もがイランのアハマド・ネジャド大統領の人気の、秘密を知りたがるだろう。あれだけ世界を敵に回すような過激な発言をして、何故イラン国民は黙って、あるいは過激なまでに、彼を支持し続けるのかと思うだろう。

 それは彼の言葉の巧みさによるのであろう。私はイランの言語であるペルシャ語を習ったことが無いので、その言葉の持つ力について、語ることは出来ないが、マウラビの詩(ジャラールッデーン・ルーミーをイラン国民はマウラビと呼んでいる)の一説を暗誦できない人を探すのが、イランでは難しいほどだということだ。

 それはマウラビの詩がすばらしい以上に、詩の心を理解し、それを深く愛するという感性が、イラン人にはあるからであろう。

 イランを訪ねてみて分かることは、この国が詩を生み出すにふさわしい、自然の美しさをふんだんに持ちえている国だということだ。カメラを持って行った者は、何百何千とある被写体に、ただ呆然としてしまうほどだ。

 そのなかから詩が生まれたのであり、美しい絵が描かれ、それを織り込んだじゅうたんが造られたのであろう。詩の感性、芸術の素養豊かなイラン国民は、同時にプライドが高く、しかも傷つきやすい性格を持っているものと思われる。

 そのことを抜きにして、イランの政治を語るわけにはいくまい。イラン国民やアハマド・ネジャド大統領の、時として唐突とも思える過激な発言は、彼らが感性の人であるがゆえに、出てくるものであろう。

 そのとき、彼らに本音を語らせうるのは、彼らのその感受性を理解し、柔らかに語りかけることではないのか。アメリカには相手を言い負かすことを前提とした、ディベート学というものがあるらしいが、それではイラン国民とは語り合えまい。

 世界の政治は、あるいは人間性や民族の特長を学ぶことから、始まるのかもしれない。イランの自然の美しさに触れるとき、この国の人たちとどう話すべきかを、教えられたような気がした。