トルコのスカーフ問題の行方

2008年2月23日

 オスマン帝国が滅び、トルコを再生させようと立ち上がったケマル・アタチュルクは、自国の敗北の原因は、イスラム教の後進性にあるとして、イスラム教の社会への影響を押さえ込み、トルコの近代化を進めた。  

 以来、トルコはヨーロッパと同じような国になることを目指し、あらゆる分野における改革を進めてきた。もし、このケマル・アタチュルクの方針に反する状況が発生した場合には、トルコ軍が立ち上がることを憲法で認めもした。

 トルコはアラビア文字の使用をやめ、ローマ字を採用した。女性が公の場所にスカーフを着用して出ることを禁止したのも、こうした流れのひとつであった。国会や政府の役所、大学などでは、女性はスカーフの着用を禁じられた。  しかし、スカーフの着用については、やはりイスラム教徒がほとんどを占める、トルコ社会の習慣ということもあり、トルコ国民の間では、反対意見も少なくなかった。スカーフをかむらない自由があるのなら、スカーフをかむる自由があって当然だ、という考え方が以前からあった。

 このため、一部の首相はスカーフ着用禁止については、緩やかな対応をする者もいた。しかし、それは正式なものではなかった。あくまでも「大目に見る」といった、略式の許可とでもいえるものだった。  トルコの政治がイスラム色の強いとされるAKP(開発公正党)によって牛耳られるようになると、幾つかの重要議題の一つに、スカーフの着用問題が加えられた。そして、この問題を議会が討議するか否かが問われ、絶対多数で議題として取り上げられることになり、次いで議会は、スカ-フの公の場での着用を許可することを決めた。

 最後に残るのは、これを最高裁が判断し、正式に認めるか否かだ。世俗派の人たちは何とかして、このスカーフ着用を阻止しようとし、デモや反対集会を繰り返している。しかし、頼みの綱の軍は、この問題で動かないのではないかと思われている。  それは、これまで軍と政府との間で、多くの駆け引きが行われてきており、軍はここでスカーフ問題に介入して、政府との関係を悪化させたくはない、と考えるからであろう。たとえば、PKK問題に対する対応では、政府と軍部の間で、ぎりぎりの交渉が行われ、現在に至っているからだ。

 スカーフの着用が最高裁でも認められ、正式に認められたとしても、トルコがイスラム保守色の強い国になるとは思わないが、世俗派の人たちにしてみれば、スカ-フ着用はイスラム保守化を阻止する上で、重要なポイントということなのであろう。  その辺の世俗派の心理を意識して、トルコの宗教界の大御所たちは、あくまでも緩やかな状況変化をするべきだと、彼らの追従者たちに指示を出しているようだ。もし、最高裁が正式にスカーフの公の場での着用を認めたとして、実際にはそう大きな変化はないと思えるのだが、半年後、あるいは1年後に、トルコ社会がどう変化しているか、興味が持たれる。