今年も本日から此処Pakistanでもラマダンに入りました。
国により明日からの場合もありますが、ラマダンは言ってみれば日本のお盆のようなもので、遠くの親戚や知人たちが夜毎集まり飲んだり(アルコール類はありませんが。)食べたり。どのイスラム教国でも砂糖、肉を含め全ての食品の消費量が2倍から3倍に跳ね上がります。
殆どのイスラム教徒は昼間の断食より、この夜毎の宴会を待ち焦がれているようです。特に子供たちは夜遅くまで遊べますし、お小遣いや新しい洋服を着せて貰って大喜びです。
しかし、これが建設現場のような職場では大変な状況が生じます。夜毎の宴会で疲れ果て、睡眠不足で現場のちょっとした物陰には居眠りする労務者がごろごろ、うっかりすると躓くことにもなりかねません。
勤務時間も朝の6時から昼過ぎの1時まで。夕方のイフタール(日没時の食事)まで飲まず食わずですから、誰しもその合図を待ち受けています。ですからこのイフタール前に車に乗るのは実に危険です。
誰しもイフタールの時刻に間に合わせようと、speedを出して帰宅を急ぎます。毎年30回もあるイフタールとお前の命とどちらが大切なんだと文句を言いたくなる状態です。
エジプトの場合、喜捨の精神が行き渡っているのか、裕福なのか理由は分かりませんが、路上に沢山のテーブルが出て誰でもがイフタールの食事を取ることが出来ます。
私も何度かその路上のイフタールをいただいたことがありますが、イスラム教徒でなくても外国人であっても問題なく、食事が出来ます。ここPakistanでは貧しいせいか、そんなテーブルは出ていませんでした。(昨年の経験ですが。)
兎に角、Ramadanはアラーに対してそれぞれの信仰の念を伝える期間ですから、昼間の水や食べ物から、夜の欲望まで全て控えて、その信仰の念をアラーに伝えます。エジプトの女性達は概してクレオパトラ並に化粧は非常に濃いのが普通です。(実際にクレオパトラを見たわけではなく、エリザベステーラーのクレオパトラからの印象です。)
事務所の女性達も飾ると言う欲望を抑えてRamadanのときは全くのすっぴん。朝、会った時は一瞬別人かと思い、それから病気なのと聞いたほどにその変化は劇的でした。
私が仕事をしている所は、Pakistanの北西辺境州のBattagramと言う片田舎の町ですが、通常と違い八百屋やお菓子屋の前にはデーツ(ナツメヤシの実)が山のように盛り上げて売っており、食べ物屋と言う食べ物屋には溢れるほど食料品が山積みになっています。
Ramadanのときに人口が飛躍的に増加するわけでもなく、一人当たりの食物摂取量が何倍にもなるわけではありませんので、山のように盛り上げた食料品は最終的には生ごみとなって廃棄されます。私がエジプトに下りました時、ザバリンというごみ収集の人たちの村の再開発を手伝ったことが有りました。その時、Ramadanの時は、豚のえさとしては処理しきれないくらいの生ごみが出ると言っておりました。
信仰と言うのは常にある面での何かの犠牲或いは無駄と言うものを要求しますが、Ramadanが始まると色々と地球と言う単位でも考えさせられます。
国により明日からの場合もありますが、ラマダンは言ってみれば日本のお盆のようなもので、遠くの親戚や知人たちが夜毎集まり飲んだり(アルコール類はありませんが。)食べたり。どのイスラム教国でも砂糖、肉を含め全ての食品の消費量が2倍から3倍に跳ね上がります。
殆どのイスラム教徒は昼間の断食より、この夜毎の宴会を待ち焦がれているようです。特に子供たちは夜遅くまで遊べますし、お小遣いや新しい洋服を着せて貰って大喜びです。
しかし、これが建設現場のような職場では大変な状況が生じます。夜毎の宴会で疲れ果て、睡眠不足で現場のちょっとした物陰には居眠りする労務者がごろごろ、うっかりすると躓くことにもなりかねません。
勤務時間も朝の6時から昼過ぎの1時まで。夕方のイフタール(日没時の食事)まで飲まず食わずですから、誰しもその合図を待ち受けています。ですからこのイフタール前に車に乗るのは実に危険です。
誰しもイフタールの時刻に間に合わせようと、speedを出して帰宅を急ぎます。毎年30回もあるイフタールとお前の命とどちらが大切なんだと文句を言いたくなる状態です。
エジプトの場合、喜捨の精神が行き渡っているのか、裕福なのか理由は分かりませんが、路上に沢山のテーブルが出て誰でもがイフタールの食事を取ることが出来ます。
私も何度かその路上のイフタールをいただいたことがありますが、イスラム教徒でなくても外国人であっても問題なく、食事が出来ます。ここPakistanでは貧しいせいか、そんなテーブルは出ていませんでした。(昨年の経験ですが。)
兎に角、Ramadanはアラーに対してそれぞれの信仰の念を伝える期間ですから、昼間の水や食べ物から、夜の欲望まで全て控えて、その信仰の念をアラーに伝えます。エジプトの女性達は概してクレオパトラ並に化粧は非常に濃いのが普通です。(実際にクレオパトラを見たわけではなく、エリザベステーラーのクレオパトラからの印象です。)
事務所の女性達も飾ると言う欲望を抑えてRamadanのときは全くのすっぴん。朝、会った時は一瞬別人かと思い、それから病気なのと聞いたほどにその変化は劇的でした。
私が仕事をしている所は、Pakistanの北西辺境州のBattagramと言う片田舎の町ですが、通常と違い八百屋やお菓子屋の前にはデーツ(ナツメヤシの実)が山のように盛り上げて売っており、食べ物屋と言う食べ物屋には溢れるほど食料品が山積みになっています。
Ramadanのときに人口が飛躍的に増加するわけでもなく、一人当たりの食物摂取量が何倍にもなるわけではありませんので、山のように盛り上げた食料品は最終的には生ごみとなって廃棄されます。私がエジプトに下りました時、ザバリンというごみ収集の人たちの村の再開発を手伝ったことが有りました。その時、Ramadanの時は、豚のえさとしては処理しきれないくらいの生ごみが出ると言っておりました。
信仰と言うのは常にある面での何かの犠牲或いは無駄と言うものを要求しますが、Ramadanが始まると色々と地球と言う単位でも考えさせられます。