「ウズベキスタン雑感」 さる8月10日から8月17日までウズベキスタンの首都タシケント市で開催された国際会議に出席してきた。この会議はウズベキスタンが歴史的にどのような後見をイスラーム文化の発展に寄与してきたかについて話し合うものだった。
ウズベキスタンと日本のあいだには時差が4時間あり、タシケントには成田 を出発した8月10日の同日午後5時過ぎに到着した。機内アナウンスで外気は41度とのこと、日中の気温が気になった。
空港には外務省から依頼された学生アルバイトのファルーフさん(日本語通訳)とタシケント経済大学副学長アドハムベクムラドフ教授、タシケント市長などがVIP室で迎え歓迎してくれた。 その後ホテルに向かうのだが、湿気がないためにあまり不快さを感じない。しかし、それは感覚だけであり、相当体力を消耗していることを、帰国後に気付くこととなった。
会議が始まる前の11日12日13日はタシケントのあちこちを案内いただき民芸館、民芸工房、ハズラト・イマームのモスク、第4代カリフ・オスマーンのコーランがある博物館などを見学、ここにあったミナレットはブハラーのものよりも高いということだった。それはまさにイスラーム・カリモフ大統領の威信の現れであろう。 13日は歴史博物館を見学したがここに陳列してある仏像は素晴らしいものだった。その後に訪問したチムール博物館もきれいの一語に尽きるものでイスラーム芸術を一堂に集めたという感じがした。
またなかに展示してあったウズベキスタン各地にあるモスクの模型が実に精巧なのに驚いた。こうした展示物を見ているとウズベキスタンの国民は器用で勤勉であることが実感でき、やがてこの国は栄えるだろうと思えた。 「ウズベキスタン・イスラーム運動(IMU)」 ウズベキスタンでは、イスラーム・カリモフ体制が独立以来続いている。この体制は来年の1月に任期を終えることになっているが、最終的には、終身大統領制を採るものと思われる。したがって、彼と彼の家族、大統領を取り巻く高官たちは、絶大な権力を保持しているものと思われる。
イスラーム・カリモフ大統領は、他の国々の大統領と同じで、就任時は比較的ノーブルな考えを持っていたようだ。しかし、1999年2月、2004年4月、7月にはタシケント市等で爆発事件が発生した。 なかでも1999年に起こったイスラーム原理主義者組織ウズベキスタン・イスラーム運動(IMU)の内務省ビルに対する特攻攻撃以来、イスラーム・カリモフ大統領は、ウズベキスタン全土の治安維持に重点を置くようになったようだ。
この結果、イスラーム原理主義者たちは、徹底した政府のイスラーム原理主義者狩りを恐れ、現在ではほとんどウズベキスタン国内で活動していないし、居住もしていないようだ。イスラーム原理主義者たちは、現段階ではタジキスタン、キルギスタン、アフガニスタンなどに潜伏して、ウズベキスタン政府軍の攻撃から逃れている。 こうした経緯から、国民は政治的に反対の立場を述べたり、大統領とその家族、政府高官に対して、批判めいた発言を控えるようになった。しかし、イスラーム・カリモフ体制は、それだからといって、イスラーム原理主義者たちの脅威から解放されたわけではない。
ウズベキスタンは新たな、あるいは長期にわたる、外国のイスラーム原理主義者たちの、体制に対する、破壊工作を警戒しなければならない状態にある。それは、イラン、パキスタンから潜入する、イスラーム原理主義者たちだ。 段階では、ウズベキスタン政府は、彼らイスラーム原理主義者たちが、それぞれの国の政府と関係あるものか、あるいは特定の組織によるものかについては明言を避けている。
これらのイスラーム原理主義者たちは、個人の立場で、学生、ビジネスマン旅行者などを装って潜入し、ウズベキスタンのなかで、反体制細胞を作る活動をしているということだ。もちろん、こうした正式な入国方法をとらず、非合法にウズベキスタンに潜入している者もいる。当然ことながら、こうした事情から、ウズベキスタン政府はイランやパキスタン政府、そしてそれらの国民に対する、警戒心を解いていない。 サウジアラビアで興り、現在サウジアラビアのイスラム教の主要学派となっている、イスラーム原理主義のワハビー派は、ウズベキスタンにも、少なからぬ影響を与え始めているようだ。
そもそもウズベキスタンとワハビー派の関係はサウジアラビア政府に招かれていったウズベキスタンの若い学との中にワハビー派に傾倒していった者がいたことに起因する。ウズベキスタン政府は彼らを厳しく取り締まり、国内でワハビー派の活動が活発化することを阻止している。 これは不明確ではあるが、サウジアラビア側の働きかけに加え、ウズベキスタン国民の一部のあいだからも、サウジアラビアとは全く関係ない形で、ワハビー派と名乗るグループが誕生してきているとも言われている。イスラーム・カリモフ大統領は、このワハビー派の動きに対しても、警戒しなければならなくなってきている。
「アンディジャンを始めとするフェルガナ地域の動向と実態」 2005年5月に起こった、フェルガナ盆地地域、アンディジャン市で暴動事件
以来、アンディジャンを含むフェルガナ地域には、イスラーム原理主義者が増加傾向にあるとされている。 しかし、実態はすこし違うようだ。この地域の住民は敬虔なイスラーム教徒が多い地域だったため、イスラーム色が他のウズベキスタンの地域に比較して強いのは確かだ。
アンディジャンで起こった暴動事件は、イスラーム教原理主義が原因ではなかった。真の暴動の原因は、6ヶ月にも及ぶ給料の未払いであり、これに抗議した住民のデモを、政府がイスラーム原理主義の動きとして、武力で弾圧したのだと批判する意見もある。 結果的には、1000人を上回る死者を出してしまったといわれている。(問題はこの暴動を欧米諸国が、イスラーム・カリモフ大統領非難に利用しているという点だ、したがって、冷静に報道を見ていないと、ウズベキスタンの内情について、とんでもない誤解を抱くことになろう。)
「イスラーム・カリモフ体制の新対応」 イスラーム・カリモフ大統領は、自国内のイスラーム原理主義者や、外国から侵入してくる、イスラーム原理主義者たちに対する対抗手段として、国民に対する、イスラーム教の面での対応を変えつつあるようだ。
たとえば、イスラーム・カリモフ大統領は、イスラーム教を重視しているという立場を示すために、モスク(イスラーム教の礼拝所)の建設を各地で行っている。現在、首都タシケントには15000人が、一度に礼拝できる大モスクが建設された。また、イスラーム・カリモフ大統領は、穏健派のイスラーム教徒の育成に、力を入れるようになった。 そのひとつが、ウズベキスタンをイスラーム文化の中心地にしよう、という試みであり、今回開催された国際会議もそのひとつだ。首都のタシケントやサマルカンド市、ブハラー市、ヒバ市では、古いイスラーム建築の修復工事が大統領命令で進められており、巨大なモスクやイスラームのマドラサ(学校)などが、4-8ヶ月で完成したということだ。
膨大な予算がこの工事には投じられたと思われるが、ウズベキスタンばかりではなく、湾岸諸国の資金も投じられたものと思われるということだ。したがって、政府の要職にある人たちですら、実質どれだけの資金が、この再建に費やされたのか把握できないでいる。 イスラーム・カリモフ大統領の穏健イスラーム育成の動きのなかで、国民は少しずつ警戒心を緩め、モスクでの礼拝に参加する者が増えてきている。ウズベキスタン国民は、イスラーム・カリモフ体制に不満はあるものの、賢明であり、イスラーム原理主義の危険性と矛盾を十分理解しているようだ。
「ウズベキスタンの経済状況と発展の可能性」 飛行機でタシケント市からサマルカンド市へ向かう途中、地上を眺めていたがウズベキスタンの国土は緑に覆われているし、首都タシケントは街中が樹木で覆われている、といっても過言ではないほどだ。したがって、農業の振興を図れば、それだけでも十分にまかなえるものと思われる。この点はアラブとは全く様相を異にしている。
現在のウズベキスタンの経済状況は、現在最悪だと評価する者が多い。平均給与は100-150ドル程度だということだ。しかし、大学、大学院に学ぶ者の数が多く、教育に対する熱意が非常に高い。大学生と大学院生が、今回の会議でアルバイトの通訳として参加していたが、英語は非常にうまく、日本語の通訳も十分に意思の疎通が図れるレベルだった。 ウズベキスタン人の15パーセント以上が、アラビア語も話せるというので、実際に数人とアラビア語で話してみたが上手であった。ハズラト・イマームという遺跡の修復されたモスク群を訪問した折には、記帳させられたが、アラビア語で書いたところ、そこの管理者が直ちに私の書いたアラビア語を理解し、アラビア語で話しかけてきた。
現在ウズベキスタンではウズベキスタン語、ロシア語、アラビア語、英語、ハングル語(スターリンによって、朝鮮族が極東地域から移住させられ、現在ウズベキスタンには30万人が居住しているといわれている)、などが多くの国民によって使用可能な状態にある。 ウズベキスタンの生産品は綿製品と金であろうが、それ以外では細密画、木彫工芸品、絹織物、焼き物が主な土産品となっているが、そのいずれも精巧度は高い、つまり、器用で緻密なウズベキスタン人の性格を現しているということだ。したがって、政府が国民を正しい方向にリードして行けば、ウズベキスタンは十分に発展する可能性がある。
またウズベキスタン人の語学的才能、穏健な性格、旧ソ連圏であったことなどを考慮すると、日本がウズベキスタンを、中央アジア、ロシア、中国の情報収集基地にすることは、十分に考慮に値しよう。 そもそも、ウズベキスタン人の特性を見込んで、ソ連邦の時代には、ウズベキスタンの首都タシケント市には、スパイ養成所(クトベ)があったといわれている、それは現在では、外国語を中心とした勉強をする、インステイチュートになっているということだ。
ウズベキスタンと日本のあいだには時差が4時間あり、タシケントには成田 を出発した8月10日の同日午後5時過ぎに到着した。機内アナウンスで外気は41度とのこと、日中の気温が気になった。
空港には外務省から依頼された学生アルバイトのファルーフさん(日本語通訳)とタシケント経済大学副学長アドハムベクムラドフ教授、タシケント市長などがVIP室で迎え歓迎してくれた。 その後ホテルに向かうのだが、湿気がないためにあまり不快さを感じない。しかし、それは感覚だけであり、相当体力を消耗していることを、帰国後に気付くこととなった。
会議が始まる前の11日12日13日はタシケントのあちこちを案内いただき民芸館、民芸工房、ハズラト・イマームのモスク、第4代カリフ・オスマーンのコーランがある博物館などを見学、ここにあったミナレットはブハラーのものよりも高いということだった。それはまさにイスラーム・カリモフ大統領の威信の現れであろう。 13日は歴史博物館を見学したがここに陳列してある仏像は素晴らしいものだった。その後に訪問したチムール博物館もきれいの一語に尽きるものでイスラーム芸術を一堂に集めたという感じがした。
またなかに展示してあったウズベキスタン各地にあるモスクの模型が実に精巧なのに驚いた。こうした展示物を見ているとウズベキスタンの国民は器用で勤勉であることが実感でき、やがてこの国は栄えるだろうと思えた。 「ウズベキスタン・イスラーム運動(IMU)」 ウズベキスタンでは、イスラーム・カリモフ体制が独立以来続いている。この体制は来年の1月に任期を終えることになっているが、最終的には、終身大統領制を採るものと思われる。したがって、彼と彼の家族、大統領を取り巻く高官たちは、絶大な権力を保持しているものと思われる。
イスラーム・カリモフ大統領は、他の国々の大統領と同じで、就任時は比較的ノーブルな考えを持っていたようだ。しかし、1999年2月、2004年4月、7月にはタシケント市等で爆発事件が発生した。 なかでも1999年に起こったイスラーム原理主義者組織ウズベキスタン・イスラーム運動(IMU)の内務省ビルに対する特攻攻撃以来、イスラーム・カリモフ大統領は、ウズベキスタン全土の治安維持に重点を置くようになったようだ。
この結果、イスラーム原理主義者たちは、徹底した政府のイスラーム原理主義者狩りを恐れ、現在ではほとんどウズベキスタン国内で活動していないし、居住もしていないようだ。イスラーム原理主義者たちは、現段階ではタジキスタン、キルギスタン、アフガニスタンなどに潜伏して、ウズベキスタン政府軍の攻撃から逃れている。 こうした経緯から、国民は政治的に反対の立場を述べたり、大統領とその家族、政府高官に対して、批判めいた発言を控えるようになった。しかし、イスラーム・カリモフ体制は、それだからといって、イスラーム原理主義者たちの脅威から解放されたわけではない。
ウズベキスタンは新たな、あるいは長期にわたる、外国のイスラーム原理主義者たちの、体制に対する、破壊工作を警戒しなければならない状態にある。それは、イラン、パキスタンから潜入する、イスラーム原理主義者たちだ。 段階では、ウズベキスタン政府は、彼らイスラーム原理主義者たちが、それぞれの国の政府と関係あるものか、あるいは特定の組織によるものかについては明言を避けている。
これらのイスラーム原理主義者たちは、個人の立場で、学生、ビジネスマン旅行者などを装って潜入し、ウズベキスタンのなかで、反体制細胞を作る活動をしているということだ。もちろん、こうした正式な入国方法をとらず、非合法にウズベキスタンに潜入している者もいる。当然ことながら、こうした事情から、ウズベキスタン政府はイランやパキスタン政府、そしてそれらの国民に対する、警戒心を解いていない。 サウジアラビアで興り、現在サウジアラビアのイスラム教の主要学派となっている、イスラーム原理主義のワハビー派は、ウズベキスタンにも、少なからぬ影響を与え始めているようだ。
そもそもウズベキスタンとワハビー派の関係はサウジアラビア政府に招かれていったウズベキスタンの若い学との中にワハビー派に傾倒していった者がいたことに起因する。ウズベキスタン政府は彼らを厳しく取り締まり、国内でワハビー派の活動が活発化することを阻止している。 これは不明確ではあるが、サウジアラビア側の働きかけに加え、ウズベキスタン国民の一部のあいだからも、サウジアラビアとは全く関係ない形で、ワハビー派と名乗るグループが誕生してきているとも言われている。イスラーム・カリモフ大統領は、このワハビー派の動きに対しても、警戒しなければならなくなってきている。
「アンディジャンを始めとするフェルガナ地域の動向と実態」 2005年5月に起こった、フェルガナ盆地地域、アンディジャン市で暴動事件
以来、アンディジャンを含むフェルガナ地域には、イスラーム原理主義者が増加傾向にあるとされている。 しかし、実態はすこし違うようだ。この地域の住民は敬虔なイスラーム教徒が多い地域だったため、イスラーム色が他のウズベキスタンの地域に比較して強いのは確かだ。
アンディジャンで起こった暴動事件は、イスラーム教原理主義が原因ではなかった。真の暴動の原因は、6ヶ月にも及ぶ給料の未払いであり、これに抗議した住民のデモを、政府がイスラーム原理主義の動きとして、武力で弾圧したのだと批判する意見もある。 結果的には、1000人を上回る死者を出してしまったといわれている。(問題はこの暴動を欧米諸国が、イスラーム・カリモフ大統領非難に利用しているという点だ、したがって、冷静に報道を見ていないと、ウズベキスタンの内情について、とんでもない誤解を抱くことになろう。)
「イスラーム・カリモフ体制の新対応」 イスラーム・カリモフ大統領は、自国内のイスラーム原理主義者や、外国から侵入してくる、イスラーム原理主義者たちに対する対抗手段として、国民に対する、イスラーム教の面での対応を変えつつあるようだ。
たとえば、イスラーム・カリモフ大統領は、イスラーム教を重視しているという立場を示すために、モスク(イスラーム教の礼拝所)の建設を各地で行っている。現在、首都タシケントには15000人が、一度に礼拝できる大モスクが建設された。また、イスラーム・カリモフ大統領は、穏健派のイスラーム教徒の育成に、力を入れるようになった。 そのひとつが、ウズベキスタンをイスラーム文化の中心地にしよう、という試みであり、今回開催された国際会議もそのひとつだ。首都のタシケントやサマルカンド市、ブハラー市、ヒバ市では、古いイスラーム建築の修復工事が大統領命令で進められており、巨大なモスクやイスラームのマドラサ(学校)などが、4-8ヶ月で完成したということだ。
膨大な予算がこの工事には投じられたと思われるが、ウズベキスタンばかりではなく、湾岸諸国の資金も投じられたものと思われるということだ。したがって、政府の要職にある人たちですら、実質どれだけの資金が、この再建に費やされたのか把握できないでいる。 イスラーム・カリモフ大統領の穏健イスラーム育成の動きのなかで、国民は少しずつ警戒心を緩め、モスクでの礼拝に参加する者が増えてきている。ウズベキスタン国民は、イスラーム・カリモフ体制に不満はあるものの、賢明であり、イスラーム原理主義の危険性と矛盾を十分理解しているようだ。
「ウズベキスタンの経済状況と発展の可能性」 飛行機でタシケント市からサマルカンド市へ向かう途中、地上を眺めていたがウズベキスタンの国土は緑に覆われているし、首都タシケントは街中が樹木で覆われている、といっても過言ではないほどだ。したがって、農業の振興を図れば、それだけでも十分にまかなえるものと思われる。この点はアラブとは全く様相を異にしている。
現在のウズベキスタンの経済状況は、現在最悪だと評価する者が多い。平均給与は100-150ドル程度だということだ。しかし、大学、大学院に学ぶ者の数が多く、教育に対する熱意が非常に高い。大学生と大学院生が、今回の会議でアルバイトの通訳として参加していたが、英語は非常にうまく、日本語の通訳も十分に意思の疎通が図れるレベルだった。 ウズベキスタン人の15パーセント以上が、アラビア語も話せるというので、実際に数人とアラビア語で話してみたが上手であった。ハズラト・イマームという遺跡の修復されたモスク群を訪問した折には、記帳させられたが、アラビア語で書いたところ、そこの管理者が直ちに私の書いたアラビア語を理解し、アラビア語で話しかけてきた。
現在ウズベキスタンではウズベキスタン語、ロシア語、アラビア語、英語、ハングル語(スターリンによって、朝鮮族が極東地域から移住させられ、現在ウズベキスタンには30万人が居住しているといわれている)、などが多くの国民によって使用可能な状態にある。 ウズベキスタンの生産品は綿製品と金であろうが、それ以外では細密画、木彫工芸品、絹織物、焼き物が主な土産品となっているが、そのいずれも精巧度は高い、つまり、器用で緻密なウズベキスタン人の性格を現しているということだ。したがって、政府が国民を正しい方向にリードして行けば、ウズベキスタンは十分に発展する可能性がある。
またウズベキスタン人の語学的才能、穏健な性格、旧ソ連圏であったことなどを考慮すると、日本がウズベキスタンを、中央アジア、ロシア、中国の情報収集基地にすることは、十分に考慮に値しよう。 そもそも、ウズベキスタン人の特性を見込んで、ソ連邦の時代には、ウズベキスタンの首都タシケント市には、スパイ養成所(クトベ)があったといわれている、それは現在では、外国語を中心とした勉強をする、インステイチュートになっているということだ。