イスラエル国民の本音

2007年7月22日

 1年数ヶ月ぶりでイスラエルのテルアビブを訪問した。ここで決まって会うのは、一人のビジネスマンと、一人の元外交官兼学者兼作家兼軍人だ。それ以外にも大学教授や弁護士といった知人たちもいるが、時間に制約があるときは上記の二人に絞って会うことにしている。

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 定宿はテルアビブのシェラトン・ホテルだが、それは知人の家から比較的近いことと、一般のイスラエル国民の生活の様子が見えるからだ。今回もホテルの部屋からは、海岸を散歩する年配者や、海水浴を楽しむ若者の姿が見えた。

 しかし、これまでと違って、何故かイスラエル国民の動きに、依然にあったような活発さを感じないし、人口が減っているような印象さえ受けた。
もちろんそんなことは無いのだろうが、今回の訪問でそう感じさせる何かが、今のイスラエルにはあるようだ。

 知人の一人と会ったのは到着した日の午後5時、ホテルの喫茶店だった。彼は最初に第三次中東戦争でイスラエルを勝利に導いたモシェ・ダヤン将軍の批判を始めた。彼とモシェ・ダヤン将軍とは幼馴染だったと語った、第三次中東戦争からしばらくして、彼はモシェ・ダヤン将軍との交友を絶ったというのだ。

 批判といっても、それは単なるモシェ・ダヤン将軍に対する中傷ではなかった。彼が批判をしたのは、モシェ・ダヤン将軍が勝利のあと、非常に短時間でアラブ(パレスチナ)人社会に民主化を試みたことだった。

 1960年代当時のパレスチナ人には、民主化とは何か、民主主義とは何かがわからなかったのは当然であろう。結果的に、アラブ人はあまりにもまぶしすぎる民主主義を前に目がくらみ、勝手なことを誰もが言い始めるようになったというのだ。

 その弊害が今日なお、アラブ側では続いているのだと知人は語った。モシェ・ダヤン将軍と同じような間違いを、アメリカもイラクでしたとも語った。もしアメリカ軍がバグダッドを陥落したあと、4週間ほどの期間を戒厳令下に置き、その期間で新しい警察機構をイラクに構築していたら、今のような混乱には陥っていなかったろうというのだ。

 モシェ・ダヤン将軍がなぜ、アラブに民主化を性急に進めようとしたのかについては、彼がトルコの建国の父、ケマル・アタチュルクにあこがれていたからだと語った。 
イスラム世界の覇者であったオスマン帝国が、ヨーロッパとの戦争で敗北した。そして国家が切り刻まれようとしたとき、ケマル・アタチュルクはオスマン帝国から国を、近代システムの国家トルコ共和国変え、宗教と政治を切り離す世俗化を進めて成功した。それがあったから、トルコはその後イスラム世界の中では例外的に、近代国家へと発展することができたのだというのだ。
 この知人の話の裏には幾つもの示唆が込められている。そのことを考えるだけでも、今後何年かの時間を必要とするかもしれない。彼は年齢もあるがなぜか、何故か敗北者のイメージを私に与えた。そして、それは私に何かをしてくれというメッセージでもあるように感じられた。