ファタハはガザから追われるのか

2007年6月17日

 レバノン戦争は、イスラエルの北部国境地帯の安全を確保するための戦争として、1982年に起こり、シリアが早期に停戦を宣言したため、イスラエル軍はあっという間にレバノンの首都ベイルートまで到達した。  以来、イスラエル軍はベイルートのパレスチナ難民キャンプを包囲し、兵糧攻めと砲弾の雨を降らせた。そしてついに、アラファト議長はベイルートの拠点を捨て、チュニジアへと逃れることになった。

 その後に残されたパレスチナ難民は、イスラエル軍が遠巻きに囲んだ中で、レバノンのキリスト教徒のミリシアによって、多数が虐殺されることとなった。ベイルートを逃れていたアラファト議長は、この虐殺を最大に政治利用しようとし、実際の死者数の何倍もに膨らませて、世界にイスラエルの非道をアピールした。(アラファト議長は当初は死者数を3000人程度と語り、最終的には6-7000人と主張したが実数は7-800人程度だった)  しかし、このアラファと議長による誇大宣伝は、全くの逆効果を生むこととなった。殺された数が実数に比べ大幅に少なかったことによって、虐殺の悲劇も小さなものとして再評価されたのだ。しかも、パレスチナ難民を虐殺したのはレバノンのキリスト教徒のミリシアであって、直接手を下したのは、イスラエル軍ではなかったのだ。

 ベイルートの難民キャンプに置き去りにされ、犠牲になったパレスチナ難民が一番気の毒な状態に置かれたのだ。彼らは今もなお、レバノンの各地の難民キャンプで不安な生活を送っているのだ。 最近起こっている、レバノン北部のトリポリ市に近い、ナハル・バーリド難民キャンプでの戦闘でも、ファタハ・イスラームとレバノン軍との交戦で、逃げ場を失ったパレスチナ難民から犠牲者が出ているのだ。

そればかりか、パレスチナのガザ地区でも、ファタハとハマースが武力衝突を始め、内戦さながらの状態に陥っている。犠牲者は双方あわせると、すでに90人前後にまで達しているのだ。 事の起こりは、マハムード・アッバース議長の率いるファタハが、パレスチナ資金をハマース政府に渡さず、ハマース政府つぶしに力を入れたことから、双方の敵意があらわになり、今日の惨状に至っているのだ。

ガザでの戦闘の挙句の果てに、ファタハ側は本部を明け渡し、いまガザから逃げ出すことを考えている。ガザ港はファタハのメンバーが逃げ出す出口になりそうだ。しかし、彼らはどこに逃げていくというのだろうか。一応、西岸地区は今なおファタハの勢力が強く、ガザ地区はハマースが強いことから、棲み分けが起こるのかもしれない。 ファタハのメンバーがガザ地区から脱出し、西岸地区にたどり着くには、イスラエルを経由するか、ヨルダンを経由するしかあるまい。しかし、彼らを温かく迎えてくれる雰囲気が、果たして西岸地区の住民の間にあるのだろうか。

ファタハはこれまで、外国からのパレスチナに対する援助金を牛耳ることによって、札束でほほを叩き、パレスチナ人たちを従わせてきた嫌いがある。 ガザを追われた負け犬の彼らに対し、西岸地区の住民は素直に従うだろうか。その逆に、これまで劣勢だったハマースが西岸でも支持を増やしていくかもしれない。

これまで何度か、ファタハの汚職にまみれた内実を伝えてきたが、その付けが一気にこれから表面化するかもしれない。アラブ各国はこの状況の中で、ファタハ支持を打ち出し、ハマースに敵対することは、そう容易ではないだろう。それはアラブ各国内部に、ハマースと呼応する勢力がたくさん存在するからだ。 ガザを脱出したファタハのメンバーが、もし西岸地区に戻れなかった場合、彼らはアラブ各国にも入国を拒否されるということが起こりえよう。

以前、リビアから追放されたパレスチナ人は、船でレバノンに向かったがレバノンでもシリアでも、エジプトでさえも受け入れられず、相当長期間にわたって船上生活を余儀なくされたということがある。 その一般のパレスチナ人の苦しみを、これからファタハの幹部たちは味わうのかもしれない。すべては彼らの過去の所業の結果だ。